飛行艇パイロットの回想
-横浜から南太平洋へ- (6) 九七式大艇バンコクへ飛ぶ

1. 軍部の南進政策

 昭和13年(1938)12月に国策会社大日本航空(株)が発足し、海洋部が誕生し同時に海洋班として横浜支所が南洋定期便を目標に準備にかかり、乗員を海軍航空隊に依託訓練するため、昭和14年3月から金沢区富岡(現在京浜急行・能見台駅前)にある横浜海軍航空隊の営門を入ったところの、バラック建の仮事務所を臨時借用し業務を開始した。

 交信状況、基地の整備能力を向上させるため、地上援助施設が整備され、給油設備等も完成した。この間、何度も定期便予定航路である横浜→サイパン→パラオの慣熟訓練飛行が行われ、1年の経験が積まれのち、やっと15年3月、定期航空第一便が無事に就航した。横浜→サイパン(1泊)→パラオ島を總飛行時間15時間で飛ぶ洋上飛行であった。

 一方、本社では水上空港の候補地を物色し、昭和14年末に好条件が満足できる根岸海岸の埋立地が最適と決まり、昭和16年4月になってようやく待望の素晴らしい営業所に移転することになった。根岸の埋立地である鳳町(現在は日本石油コンビナート)に新設された、東洋一を誇る大格納庫と、翼型のモダンな国際線ターミナル・ビルが並んで約二万坪の飛行艇空港だった。新規に採用されたばかりの大勢の若いお嬢さんたちの笑顔も眩しく、いよいよ民間航空業務が開始された。
 
 当時、日本を取り巻く国際情勢は、ABCDライン(米、英、中、オランダ)包囲網といわれた政治的、経済的外圧のもとにあった。既に国連を脱退して孤立状態を深めつつあった日本は、いよいよ非常事態におちいっていた。帝国陸海軍はいよいよ先鋭化し、アメリカをはじめとする強力な諸外国の圧力に対抗すべく、軍事力による打開策を模索していた。そして、アメリカによる油の禁輸処置に対して、活路を見いだすべく、鉱物資源を求めて、東南アジア地域への南進政策を推進していた。
 
 一方、バンコクのドンムアン空港は、欧州から砂漠を超えてインド、ビルマを経て、やっとたどりつくオアシスだった。、アジアの玄関口としての、国際的な賑わいをていしていた。

 すでに欧米諸国は、欧亜連絡のための定期航空路を開拓しており、日常的な大型飛行艇の飛来で大繁盛していた。欧州各国は、乗り合いバスに乗り遅れないように、外交上、軍事上の意義を優先し、ドムアン空港は、既に東南アジア以遠権を獲得するための拠点空港となっていた。

 その反面、東南アジアに植民地をもつ欧米諸国は、日本の南進を阻止せんと、厳しい監視体制をしていた。フランスは昭和14年に日本機の仏印(インドシナ半島)上空通過を拒否すべく、一方的に通告してきた。

 日本の国策会社として設立されている大日本航空は、開戦以来、軍部優先の航空輸送業務が多くなり、すでに活躍していた陸上機とともに、欧州各国に航続距離、搭載量ともに、優れた性能がある九七式飛行艇による進出を計画していた。

 実力者だった海軍航空参謀三木少将の指令によって、航空局乗員養成所7期生の中から私を含め6人が、入所時の予定通り、昭和16年の春から、佐世保海軍航空隊で九七式大艇の操縦訓練を行っていた。12月には太平洋戦争が勃発したが、その翌年の2月に訓練課程を総て終了、晴れて召集解除になり、休む間もなく大日本航空海洋部横浜支所に操縦士として入社した。    

 昭和16年5月ごろの東南アジアでの政情は、比較的安定していた。日本の軍事力をバックにした外交が効をそうし、日仏経済協定、日タイ平和条約、仏印タイ紛争の調停等々がつぎつぎと有利に調停され、ついに仏印上空通過も許可されるにいたった。いよいよ、桧舞台のバンコクへ九七式大艇の出番待ちとなった。

2. バンコクへの出発

 以下青色部分は、すでに故人になられた大堀修一機長による、横浜~バンコク間飛行の思い出話である。

 国際的に中立を守っていたタイ国からの要請により、仏印国境紛争の調停と、国境設定確認の交渉という重要な任務を負って、代表団がバンコクへ派遣されることになった。

 時は昭和16年7月19日、団長は矢野行使、陸海軍参謀や高級将校、政府要人、それに不思議な若い女性1名計13名の代表団、加えて海軍少将だった松永寿雄日航海洋部部長、バンコク航路開設の功労者である伊藤良平(戦後、日航専務)の計15名であった。

 一行を乗せた九七式大艇は、磯子の沖合から、爆音高く南の空へ向けて飛び立った。乗員は海軍出身の鈴木平助、青木清兵衛、逓信省海軍委託の大堀操縦士、海洋航法ベテランである田代航空士、武宮機関士他1名、桑原通信士他1名の陣容である。当時としては、超長距離洋上飛行であった横浜~淡水(台湾)~サイゴン(仏印)~バンコクを直線で結ぶ最短コースをえらんだ。

 気象予報はあいにく「日本列島の南岸に沿った前線が、鹿児島沖合にある低気圧のコアの影響により活発となり、曇りないし雨、ときには強風」を報じていた。串本沖を通過するころから、前方は次第に暗雲がたちこめて進路をさえぎり、徐々に高度を下げざるをえなかった。

 ようやく雲の下に潜り込み、できるだけ明るい方向を探して、雨中にけぶる海面の波頭を確認しながら飛びつづけた。雨に霞んで不気味に沈んだ土佐の陸地を通過、鹿屋へ向けて変針した。雨は益々酷くなり、豪雨が滝のように、操縦席のウインドを容赦なく叩きつけ、前方視界はほとんどゼロで、サイド・ウインドから海面を確認するのがやっとの状態だった。

 多分、低気圧の中心に違いない。しかし、引き返すには遅かった。全勢力を進路と高度維持に集中して飛行を続けた。右に流されたら桜島の稜線に激突すること間違いなしだ。安全策をとり、左に10度変針した。なんとかして宮崎を確認したかったが、この状態では、とても不可能に近かった。

 視界はゼロ、木の葉のごとくに揺れる機体を、航空士の指示する針路を懸命に保持しながら、プロペラが高波を叩くほどの超低空飛行を強いられた。緊張と不安感が全身をおおったが、とにかく、しゃにむに飛行艇を操縦していた。突然、「ズシン!」というショックと音とともに、機体が左右に揺れながら持ち上げられた。

 ギョッとして操縦桿を握りしめたが、白波の間隙の向こうに、交差するようにして視界が開けてきた。「しめたっ」張りつめていた緊張の弛みとともに、雨が小降りになり、既に視界は2Kmほどになっている。寒冷前線を通過した瞬間だった。ホッとしたのもつかの間、目のまえに種子島と思える島影が、海上に浮かびあがっているではないか。すかさず右に変針して事なきをえた。

 「あの豪雨が続いていたら、間違いなく激突して、全員死亡だったよ」機長以下全員で胸を撫でおろした。パイロットとして、悪天候から解放された時の満足感は、他人に例えようがないほど嬉しいものだ。

 その後の飛行は、天候回復とともに快適な飛行がつづき、一日目の目的地である淡水に予定通り着水した。その晩は、昼間の悪戦苦闘を忘れて、皆で台北市内の中華料理店にくりだし、丸いテーブルを囲んで舌鼓を打った。翌朝はインドシナ半島の南東に位置するサイゴン(現ホーチミン市)への快適なフライトだった。ここの水上機基地は、大きな川に挟まれた三角州の上流にあった。河口に着水したあと、溯上するかたちで川上へ滑走し、大艇を基地周辺に設置されたブイに係留した。

3. サイゴン到着

 サイゴンの繁華街は中国風とフランス風が調和されていて、異国情緒があふれており、ホテルのロビーには豪華なシャンデリアがキラキラと輝きわたっていた。安南人(現地人)は、一般に男女ともに痩せているようだ。レストランに入ると、映画にでてくるような蝶ネクタイをしたボーイたちが、行儀良くテーブルの後ろに立っていて、うっかりすると、食べている最中に、皿を取りあげられる始末で、油断も隙もなかった。

 今振り返ってみると汗顔である。西洋料理なんて、1品のライスカレーぐらいで、正式にコースを選んで食べた経験なんてない。先ず最初に出てくるスープは美味しさのあまり、ズーズーと、いや堂々と音をたてて飲み干し、あまりにも旨いので、スプーンですくえない最後に残ったわずかなスープは、皿を口にまでもっていって飲み干した。さらに図々しくも、お代わりを要求したが、しかし、これは軽くボーイに断られてしまった。そのうえ、食べ終つてないのに、スプーンとナイフを皿の上に交差して置いたら皿ごととりあげられて、待て!ともいえずポカーンとしたものだ。

 ほろ酔い気分で繁華街へ繰りだした。暖かい南国の夜風が、心地よく顔をなでる。目を細めながら、ひやかし半分で、連なっている夜店を覗いて歩いた。とても内地では手に入らない、想像もできないような上等舶来品がビッシリと陳列されていて、どれもこれも欲しいものばかりだった。ガイド役の大日本航空陸上機の現地職員は、事務的に案内しながら、興味のなさそうな顔で、足早に通り過ぎていき、はぐれないように我々は金魚の糞のようについていった。

4. バンコクでの歓待

 次の飛行であるサイゴンからバンコクへの、延々とジャングルが続くインドシナ半島は、飛行艇にとって、まさに大陸横断コースであった。飛行艇の操縦で、海の見えないところを長時間飛行するのは、初体験だった。不時着時などを想定すると、何となく海が見えるほうが安心感があっていいから、気持が落ち着かない。

 ジャングルのほぼ中央に南北に流れるメコン河は、神秘的な深山幽谷を、川下の平野に向けて蛇行しながら、古代からの歴史を飲みこんで、ユッタリと流れている。やがて右下には、今では世界遺産に指定されているアンコール・ワットの広大な建物を眺め、カンボジアの首都プノンペンの南側を飛行し、ピエンチャンの高原を過ぎてからタイのカラット部落上空からは、一望千里の田園地帯が広がる。

 聖なる大河メナム川を眺めながら、バンコク飛行艇基地に着水、水上滑走のあと、ゴムで覆われた伸縮性のブイに係留された。ヨーロッパからの大型飛行艇が飛来しており、イギリスのエンペリアル航空(英国航空の前身)のショート・エンパイア大艇も飛来してくると、整備員が教えてくれた。

 いよいよ目的地での上陸である。海洋部横浜支所四發大型飛行艇の乗員として、威勢のいいところをみせようと、意気揚々と上陸したものの、35℃を越すムッとする熱風と、南国特有のドリアンだか椰子油だかが混ざった独特の香りが鼻をつき、それまでの威勢はどこえやら、フラフラと足下の力が抜けて、だらしなくターミナルの椅子にしゃがみ込んでしまった。

 何回もサインをしながら、ようやく入国手続きを終えたあと、政府職員や日航職員の出迎えを受けてホッとしたものだった。ホテルへの道すがら、車中から眺めた郊外は、勿論、初めて見るものだった。バラック建ての小屋には、大きな飲料用の水瓶が置かれている家屋、簡単な衣服1枚で裸足のタイ人、黄色い僧衣をまとった丸坊主の大勢の僧侶が、酷暑の中を、もくもくと歩いている。繁華街にはいって、おそろしく大きな映画の宣伝用の看板を、物珍しく見やりながら、メナム川に面したホテルに落ち着いた。

 夜はビブン首相主催の歓迎晩餐会が催され、大艇一行を、国賓待遇で迎えてくれた。会場入口には、ビブン首相、ワンラン殿下、政府高官が立ち並び、一人ひとりに握手しながら、我々を迎え入れてくれた。大感激する我々を待っていたのは、山海の珍味であり、美男美女のウエイターやウエイトレスが手際よくサービスにつとめ、シャンパンの乾杯から始まった。

 はじめは多少緊張していたわれわれも、至れり尽くせりのパーティで、場慣れするとともに、大いに飲み、大いに食って満喫していた。やがてワンラン殿下が日本で研究してタイ式歌劇にとりいれたというディナー・ショウが披露された。 豪華に着飾ったタイの民族衣装で、顔は真正面に向き、首をリズムに合わせて軽く左右に振っている。

 手首とともに、両手のピンと伸ばした指先を意味ありげな動きをする、エキゾチックなタイ、ダンサーの踊りを見ていると、17世紀の始め、はるばる日本からシャムに渡り、首都アユタヤの日本人町の頭領になった山田長政の偉業が、頭に去来したものだ。ショーが終わったあとの退出時も、ビブン首相らタイの高官達は、出口で一人ひとり丁寧に挨拶して、退出されていった。

 翌朝はタイ元王宮の観光ツアーだった。宮殿内の壁と言う壁は、全部金貼りで、まさにキンキラキンであり、軒下には数多くの金製の風鈴が、素晴らしい音色を奏でていた。室内には1メートルくらいのエメラルド像を中央にして、大きな金製の仏像が雛壇式に飾ってあり、その眩しさに思わず目をみはったものだ。

 仏教に深く根ざした仏教文化の奥深さに触れる思いだった。ガイドの話によると、まだ数か所の寺院には、それぞれに特色のある建築物や仏像があるが、次の機会に案内しますということで、ツアーが終わった。仏教国タイの繁栄と財宝が、永久に保存されることを心から祈った。

5. タイ料理

 この日の夕食は、自前でタイ料理でいこうという訳で、繁華街にあるチャイタレー大飯店(現在でも営業している)に案内された。広いガーデンのある中華料理店である。タイ料理は、丸焼きの鶏、豚の焼皮肉、かに、カイ類が大きな器に豪華に盛り付けられて、つぎつぎとテーブルにのせられた。

 細いネギとニンニクの擦り味、鷹の爪(唐辛子)で自由に味付けをして食べるのだ。早速薄口醤油より薄い色の醤油に鷹の爪を一つ入れて味付けをし、焼き鳥につけて口に入れた途端、口の中が燃えるかと思われるほど熱く、火傷したように麻痺してしまった。「グヘ―ッ」ビックリしたが、後の祭りである。虎のマークのラベルが貼られた現地のタイガービールを急いで流しこんだが、そんなもので治まるはずがない。

 「ああ、辛かった」声がでるまで、しばらく時間がかかった。隣の席のタイ人は、平気で旨そうに食べている。しかし、慣れてくると最高の味だった。タイのビールは、アルコール分が強いので、酔いのまわりが早くすぐに千鳥足になった。

6. 仏印との調停成立

 翌朝の朝食後、ロビーで一服していると、同乗してきた陸海軍の将校達が、テーブル毎に集まって、真剣な顔つきで何やらボソボソと話しあっていた。
国境確定の調停がどんな進展をみせているのか、それとも難航しているのか、サッパリわからん。こんな状況では、われわれは何日もスタンバイを強いられるかも知れないと、不安が募っていった。

 紅一点の若い女性は、時々、陸軍さんたちと何事か話し合っているが、素性がまったく分からない。通訳でもなさそうだし、どんな役割で動いているのか、最後まで不思議な存在だった。

 何日経ったか忘れたが、陸軍将校たちが、仏印への日本軍の無血進駐交渉が成立したと喜んでいた。その喜びの裏で、われわれには帰国のフライトを想い、国際情勢の険悪化による恐怖と緊張が、頭のなかをかけめぐった。

 もし交渉が決裂し、日本軍がインドシナ半島に武力侵攻すれば、このあたり一帯は、たちまち戦場と化し、戦火を交える修羅場となる可能性が十分にあった。

 そんなことにでもなれば、横浜帰還は夢と消えるのだ。何も知らされない軍指導の国策に従順にしたがって、仏印の各都市に駐在している善良な民間人たちは、無防備のまま最悪の恐怖にさらされ、あるいは犠牲となりかねない立場におかれるのだ。陸海軍の極秘作戦計画の犠牲になるのは真っ平だった。

 10日間の滞在期間中、幸いにして予定していたすべての調停ないし交渉が成立し、調印の運びとなった。待ちに待ったサイゴン経由で、内地に帰還する飛行計画ができあがり、いろいろな思い出を残してバンコクを飛び立った。サイゴンへの着水態勢にはいったが、沖合には日本海軍の巡洋艦、駆逐艦に護衛された、無数の大輸送船団が堂々と停泊していたのには驚いた。今でも、その素晴らしい光景が目に焼きついている。日本帝国の全盛時代を彷彿とさせるものだった。

 仏印(ベトナム、カンボジア、タイ)との諸々の国際交渉の成功で、平和裡に解決の道が開かれ、無血進駐が可能になった。外交交渉の重要さを今さらのように感じとり、バンコクでの会議が、日本あげての重要な任務であったことを痛感した次第だった。

 同時に、九七式大艇での国際飛行という重要任務を無事果たすことが出来たことは、ひとえに乗員の努力と幸運によるものだった。この幸運とは、完全な整備体制、役職員全員の絶大なる協力と援助の賜物であったと、大日本航空海洋部の今後の発展と活躍を期待すべく、帰途の空で誓いを新たにしたのである。「飛行艇は素晴らしい。よこはまの磯子から羽ばたく、大日本航空海洋部横浜支所、バンザイ!」と。

執筆

越田 利成

元大日本航空パイロット、元日本航空パイロット

 

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