飛行艇パイロットの回想
-横浜から南太平洋へ- (3) 事務職からみた横浜支所
歴史
1. 民間国際空港大日本航空誕生
神埼肇さんは,昭和18年大学卒業し大日本航空横浜支所に事務係の経理担当として入所された方で横浜支所の思い出を語って頂いた。(青字部分は神崎氏の話)
横浜支所は本土と南洋群島を結ぶ飛行艇の基地として、浜空(横浜海軍航空隊)での借家住まいから、ここ根岸の埋立地に昭和16年引っ越したばかりの埋立地で当時は芝生町と言ったそうですが飛行場ができるに及び<しばうちょう>(死亡)への連想から、大きく羽ばたく鳳(おおとり)町に改名され、南方方面への重要輸送任務の本拠地として位置づけられており、設計図には現在の根岸線の駅も描かれていた。
飛行場への入口、おおとり橋を渡り、九七式大艇8機を収容できる東洋一の格納庫と工場との間を通っていくと、海側に上空から見ると中央の入り口の左右に飛行機の翼形のように広がっている二階建て国際線ターミナルビルの玄関が現れる。中に入ると玄関脇に美人の受付を配置、旅客待合い室ロビー、営業係の受付、売店、海岸に面した食堂にはモダンな装いの美女たちがかいがいしく笑顔で応対してくれた。
旅客係事務室、送信機室、2階は所長室、総務、運航課、電話交換室、乗員控室それに航空局や税関事務所、通信室,屋上の3階には気象台と通信分室で總ガラス張りのしゃれた部屋で展望台のような、房総、三浦半島を望み、冷暖房完備で最高の環境であり、美人秘書を日航から派遣させ常時コーヒー等のサービスが行き届いていたのが3階の気象台。その他整備係や工場が別棟になっており、当時としては総合的機能を持った飛行艇の空港であった。
2. 飛行艇の活躍
昭和16年、世はまさに大型飛行艇全盛時代を迎え、イギリスのショート・エンパイアやアメリカの「クリッパー」など、四発飛行艇に大衆から親しみやすい名前をつけて、30人~50人の旅客を乗せて、世界の空を飛びまわっていた。海外旅行には飛行艇を利用し、例えば香港に着水するシーンから始まる映画が人気を呼んでいた。
遅ればせながら、日本でも川西九七式大艇の武装を取りはずし、内装は明るい窓を設け、床にはカーペツトが敷かれた、ゆったりとした18座席が配置された。横浜関内の一流料亭八百政で作った洋食の朝食、幕の内の昼食は豪華版だった。翼のロゴも鮮やかな旅客機飛行艇が13機、機首に大日航のマークをつけて海洋部横浜支所に配置された。
日本の南の生命線である、南洋開発事業のための内地との交流に利用し、何日もかかっていたサイパンへ僅か9時間以内で到着できる便利さに、南洋定期航空路線は、開始早々から盛況となり、大いに期待された。陸上機ではエアガール(いまのスチュワーデス)が活躍していたというのに、何故か『女は乗せない飛行艇』になってしまったのが残念だった。
戦争の渦中で次第に重苦しい軍部優先の雰囲気を感じとっていた大衆に大艇に銘々した波と雲に関する愛称、「綾波」、「黒潮」、「巻雲」など東洋人らしい発想の名前とともに、ロマンを誘う南の島への憧れの航空路として明るい希望を与えたのが『銀の翼』の四発九七式大艇であった。激しい自然の試練、長距離飛行と熱帯地方特有の容赦もなく襲いかかる悪天候を飛行するヒコーキ野郎の姿を、大日向伝が主役を演じた『南海の花束』が大ヒットした時代であった。
横浜からスペイン領チモール島間の7,000キロにおよぶ、長距離国際線航空路も、プルービング・フライト(航空路を開設する前に実施する、調査のための試験飛行)も終え、いよいよ開設の運びとなった直後、太平洋戦争勃発によって短期間に終わってしまい、薄幸の航路になった。
再度、神崎肇氏の話に戻ろう。(以下青字部分は神崎氏の話)
事務関係はまことにシンプルな組織だった。
飛行艇のサイパン向け出発便は早朝、到着便は午後。乗客の扱いや荷物の運搬に一時的に人手が要り、営業係の人員だけでは間に合わないので事務系、運航係の事務員も交代で応援にでた。
厳寒の早朝まだ真っ暗なとき、一人下宿の床を離れ、飛行場の方から聞こえる暖気運転の音を耳にしながら、寝静まっている径を出勤したことも間々あった。事務所に着くと、やがて指定旅館のホテルニューグランドや磯子の偕楽園を廻ってきた出迎えのバスが、朝の便の乗客を乗せて到着する。乗客の体重や手荷物を計量して、乗客名簿にチェックイン、関内の料亭「八百政」の機内食の到着を確認して、運搬車に積んでタラップまで運び、手渡しで艇内に納めたりの忙しい時間がひとしきりつづいた。
貨物室、化粧室は後部、客室は中央の通路を挟んで両側に座席が10席、そこと乗員室との間の両側が二段ベッドになっていた。ただ、ここは上段を下ろして下段ベッドを3人づつの座席代わりに利用することが多く、人数によっては荷物を積んだりもして、寝台として殆ど利用していなかった。徐々に改修され二段ベットは取り外され18客席に増設された。
出発準備完了で私達はタラップの両側にならび乗客を挙手の礼で見送る。尾部をトラクターのワイヤで制御されながら、飛行艇がスリップ(滑走台)を徐々に下り海面に浮かび、車輪を外し沖に滑走して無事に離水したところを見届けてからサイパン支所宛と出発時刻を横浜本局の電信課に電話で依頼する。その為に朝日のア、イロハのイ、上野のウ・・・・と一生懸命暗記したものだ。
飛行艇を送り出してから始業時間まで大分時間があるので、波静かなときには根岸湾にボートを漕ぎ出したり、夏の夜、宿直の時など、さざ波の寄せるがままに、青白い燐光を放つ夜光虫を眺めて感傷的になったりなども懐かしい思い出の一コマだ。
到着便は予定時間が部屋のスピーカーで知らされるので頃合を見計らって営業係に集合する。着水してスリップの先にあるブイを航空士が竿で引っ掛けると、整備員が持っていた大きな浮き袋のついた車輪を、サブの機関士と通信士が機体に取り付け、それが終わると、後部に台車、尾部にワイヤをつけられた艇が、トラクターによってスリップから引き上げられる。お尻からエプロンに上がって定位置に停止すると我々の出番だ。
陸上に揚げられた飛行艇の搭乗口を開き、タラップに並んで到着の乗客を挙手の礼で迎える。最後に乗員各位が降りた後、手荷物を運搬車に積んで待合室で待つ乗客に引き渡す。営業係員は乗客の応対、税関の検査も夫々その場で受ける。現在のジャンボ機の客扱いに比べて何と幼稚なこと、昔日の感がある。
神崎氏は昭和19年半ばから約一年間位の海外勤務で苦労され再び戻った横浜支所は、事務系も庶務課、人事課、経理課と独立した課に分かれており、人事課所属となられた。発着便数も少なくなり、以前のような送り迎えの応援もなくなっていた。
ポツダム宣言により民間航空は禁止、会社は解散、海外雄飛の夢儚く、翼をもぎたられた鳳の残務整理に携われた。