モンゴルの歴史(13) - The Land of Nomads –
歴史
1. 支那事変
1937年に始まった支那事変とは実際は日中戦争である。日華事変と呼ばれることもある事変ではあるが、実際は戦争であった。日中双方ともこれを戦争とは呼びたくない事情があったため宣戦布告をしていない。宣戦布告をした戦争状態となると第三国には戦時国際法上の中立義務が生じ、交戦国に対して軍事的な支援をすることは中立義務に反する敵対行動となる。満州事変以来の軍部独走でこれ以上国際的な孤立を避けたい日本にとっても、外国の援助なしには戦闘継続が出来ない蒋介石中国側にとっても不利とされたからである。
支那事変は1941年12月に日本が真珠湾を攻撃して太平洋戦争が始まると同時に中国が日本に対戦布告したため日中戦争となる。その間の詳細は省略する。
2. ノモンハン事件
ノモンハン事件は満州とモンゴルの国境紛争である。満州とモンゴルの国境近くを流れるハルハ河東岸をめぐる争いであった。モンゴルではハルハ河戦争と呼び、この戦争の勝利でソ連への信頼が深まり、革命後一貫して親ソ派の独立の英雄チョイバルサンが支配権を確立し国内体制を強化するのに役立った。関東軍はハルハ河、モンゴルはハルハ河から東に15kmの線が国境であるという主張であったがモンゴル側の主張に本来の根拠があった。
1935年 | 両国は国境策定の会議を開始したが、ソ連がモンゴルに本格的な軍事援助に乗り出した。 |
1936年 | ソ連とモンゴルの間で相互援助条約が締結されチョイバルサンはスターリンの忠実な部下として関東軍に対抗するモンゴル軍の軍備増強を推進した。 |
1937年 | 支那事変が起こるとモンゴル内で3万人に及ぶモンゴル知識人と軍人、僧侶が粛清された。特に満州に同族が住んでいるという理由でモンゴル内のブリヤート成人男子の殆どが粛清された。これらの粛清を行ったのがチョイバルサンである。 |
1939年 | 5月にハルハ河畔で関東軍とモンゴル軍の小規模な衝突が起き関東軍はモンゴル軍を蹴散らしたが、ソ連がスターリンの命により機械化部隊を送ったため、関東軍は殲滅された。7月、報復のため関東軍は7万の大部隊を動員してモンゴル側に侵入し総攻撃したが、更に増援されたソ連ジューコフ将軍の指揮する大機械化部隊の全面反撃に遭い8月に敗走した。 |
3. 戦後の内モンゴル
1946年 | 東西内モンゴル統一会議が開らかれ、東モンゴル人民政府は内モンゴル自治運動に吸収されて中国共産党に指導されることになった。 |
1947年 | 内モンゴル人民政府が樹立され内モンゴルは統一された。 |
1949年 | 中華人民共和国の誕生後、内モンゴル自治区人民政府と改称され、 |
1956年 | その他の地区も加えられて現在の内モンゴル自治区となった。 |
国共産党の初期には漢族とモンゴル族の根強い対立感情にも特別の注意が払われ、生産性の増大、牧畜技術改善に努め、モンゴル人民共和国との往来も行われていた。しかし、1957年に始まった反右派闘争で地方民族運動は激しく攻撃され、内モンゴルでは遊牧民の集団化が進み1959年に大躍進と呼ばれる人民公社化が完了した。共産主義化、漢族化が重視され大量の漢族が少数民族地帯に移住した。
更に、1966年からの文化大革命で内モンゴル自治区は一層の被害をこうむりモンゴル語教育は停止された。
1969年までに数十万人のモンゴル族が弾劾、殺害された。これに加え、1960年代前半からの中ソ対立はついに1969年に中ソ国境紛争になったため、内モンゴルは前線基地化し生産建設兵団が設立された。
漢族農民の流入が続き、内モンゴル総人口の85%が漢族となり、モンゴル族も中国語を使用せざるを得なくなり、自治区というのは名のみでモンゴル族の自治など全くなくなってしまった。
中国全土で500万人いると言われるモンゴル族も現在はモンゴル族であると同時に中国人と考えるようになっている。この中国人は漢族ではなく、あくまで中華人民共和国の国民という意識だという。