モンゴルの歴史(7)  - The Land of Nomads –

1. 大元とモンゴル連合国家

1264年フビライが単独の大ハーンとなったが、モンゴル帝国は分裂し始めていた。フビライは帝国の分裂的な状況を追認してフレグのイラン支配を認めた。
1266年チャガタイ・ウルスを支配するアルグが死亡すると、中央アジア情勢は再び不穏となった。アルグにかわってチャガタイ家の当主となったバラクは、同年にフビライに対して公然と反旗を翻したオゴデイ家の有力者カイドゥと結んだ。
1269年バラクとカイドゥはジョチ・ウルスの代表者と談合して中央アジアの大ハーン領を3王家の間で分割。
1271年フビライは彼の帝国の称号を大元と定め、金の中都、燕京の地に大都市、大都、現在の北京の建設を始めた。しかしフビライは大都には冬の3ヶ月しか滞在せず、260km離れた草原に一大天幕群オルドを張り金の役所を置いて統治した。これを上都と呼んだ。後には大理石で作られた宮殿や城壁を建設し、その豊かさはマルコ・ホ°ーロが詳しく書き残している。
同年、バラクが急死してカイドゥが中央アジアの最有力者となる。
1276年フビライは杭州の南宋の首都、臨安に無血入城し、全中国を支配下に置いた。
1282年バラクを継いだ遺児ドゥアやフビライに対して反乱を起こしたアリク・ブケの遺児メリク・テムルらはカイドゥの庇護下に入った。中央アジアに誕生したこの勢力はカイドゥ王国などと呼ばれる。
カイドゥはフビライの元と真っ向から対立し、モンゴルおよび中央アジアの支配を巡って長く抗争を続ける。
1294年フビライ病死。孫のテムルが第二代皇帝、ハーンに即位。
1301年カイドゥが元との戦いで戦死。カイドゥ王国の有力者となったドゥアはカイドゥの遺児チャパルを説いて、元の皇帝テムルに和睦を申し出た。続いてドゥアは元と結んでチャハ°ルを追放、オゴデイ・ウルスをチャガタイ・ウルスに併合し、カイドゥ王国は中央アジアを支配するチャガタイ・ハーン国に変貌する。

 こうしてモンケの死より40年以上にわたった内部抗争は終結し、モンゴル帝国は東アジアの元(大元ウルス)、中央アジアのチャガタイ・ハーン国(チャガタイ・ウルス)、キプチャク草原のキプチャク・ハーン国(ジョチ・ウルス)、西アジアのイルハン朝(フレグ・ウルス)の4大政権からなり、元を統治する大ハーンを盟主とする緩やかな連合国家に再編された。

2. フビライと日本(元寇)

1268年フビライは修好を求める国書を作らせて、支配下に置いた高麗の使者を日本の大宰府に派遣した。しかし、使者は5ヶ月間も留めおかれた上、返書も得られず高麗に戻った。
1269年蒙古、高麗双方の国使を日本に派遣したが、日本は対馬に留めて日本本土には上陸させず、国使は空しく引き上げた。
1270年再度、蒙古国使を派遣。今回は大宰府に至ったが帝都行きは許されなかったため副書のみ手渡す。
1271年高麗に戻った後、フビライに命じられて再度日本に引き返すが、大宰府に留め置かれる。
1273年何の進展も得られず元に帰る。
1274年フビライは日本討伐を発令 (文永の役) 。元軍15,000と高麗軍8,000が6,700名の水手による900艘の兵船で高麗を発ち対馬、壱岐を攻め落とす。その後、平戸、鷹島、唐津、三代の各地に上陸。肥前の豪族、松浦党数百人が抵抗したが一蹴され全員戦死。博多の西の今津湾に投錨。鎌倉御家人と激戦し、これも一蹴。夜に一旦兵船に引き上げていたところ、現在の11月26日の夜半に大暴風となり、沖合で投錨していた兵船の半数が覆没。死者13,500人を出して退却。
1275年再度正使を派遣。鎌倉で執権、北条時宗が引見したが全員処刑。
1279年フビライは処刑を知らず再度使者を派遣し、全員博多で斬首される。
1281年使者の処刑を知ったフビライは日本討伐を再発令 (弘安の役) 。高麗よりは25,000の兵と17,000の水手による900艘、江南よりは10万の兵が3,500艘の兵船で出発。高麗軍は対馬と壱岐を落として博多に投錨。鎌倉幕府は博多の浜に石塁を築いて準備し抵抗。数十回の激戦でも決着が付かず、江南軍の到着を待つため一旦壱岐に引き返す。江南軍が合流した元軍は鷹島で日本軍と激闘。元軍が圧倒していたが、現在の8月23日からの二昼夜の大暴風雨で兵船の多数が沈没。死者が11万近くに達し退却。その後フビライは1283年と1287年の二度に渡り日本征伐軍編成の命を下したが、その都度、中国南部と安南(ベトナム)で反乱が起こり中止。
1293年高麗に最後の日本征伐準備を命じたが、翌年フビライが病死し取り止めとなった。これでようやく日本は救われた。

 

 戦闘の様子を当時の記録で見てみると、元軍戦闘の様子を当時の記録で見てみると、元軍 は鉦(かね)や太鼓の合図で全体が動く集団戦法であるのに対し日本側は御家人がその郎党を率いて戦う小集団制で全体を指揮する統制が殆どなかった。

 日本の弓の射程距離が100m足らずなのに対して,元の弓は200mも飛んだ。しかもこの矢には毒がぬってあったようで、さらに「鉄砲」(てっはう)という「手榴弾」まで持っていた。日本の武士が「やあやあ我こそは・・・・」とのんきに名乗りを上げているうちに弓で射られ,鉄砲が炸裂してやられていった。また戦功の証として敵の首を切り取っている間に討たれた武士も数多くいたという。

 

 博多の町は逃げまどう市民で混乱し,多数の市民も捕らえられたり殺されたりした。夜になると町のあちこちから火の手が上がっているのが見えたと記録にある。
戦いは一方的に元軍が優勢であった。島国の日本はそれまでどこの国にも侵略されたことがなく,戦法も独自の発展をしていた。

 日本の武士の戦い方はあまりにも世界の常識からかけ離れていたのである。幸いにして、元軍が高麗、中国、蒙古軍の寄せ集めで連携が悪かったのと高麗、中国勢の士気が低かったこと、更に嵐という気象条件のおかげで二度の襲来を防ぐことができたが、鎌倉幕府は更なる襲来があることを恐れ、御家人の動員、防塁建設を続けたため、御家人の負担は増加の一途をたどった。一方、北条家のみは着々と富を溜め込んだため、御家人の反発が膨れ上がり、鎌倉幕府滅亡の大きな原因となった。

 日本は二度に渡る台風、すなわち神風に救われたと信じられているが、二度目は確かに台風に襲われたようで、南宋の兵船の残骸が近年引き上げられている。しかし、一度目はある程度の強風には襲われたが大した被害は出ていないという説が最近有力である。士気が低かった高麗勢が嵐を理由に勝手に退却したというのが真相のようである。

 日本遠征が成功しモンゴル人が日本に入っていたら現在のモンゴルは全く違っていたかも知れないのにとモンゴル人に言われたことがある。現在の日本に対するモンゴル人の強い憧れから来る言葉であろう。

3. モンゴル帝国の繁栄と解体

モンゴル帝国は穏やかな連合国家になり一旦は落ち着いたかに見えたが、平和と繁栄の時代は長くは続かなかった。

1307年元のテムルの死後ハーン位を巡る対立と抗争が相次ぐ。
1323年ハーン暗殺事件が起こり、その後次々にハーンが交代して王朝の安定が失われていった。さらにモンゴル諸政権の安定にとどめを刺したのはペストをはじめとする疫病の大流行と天災の続発であった。
1334年ドゥアの子孫達がハーンを継いでいたチャガタイ・ハーン国が、タルマシリン・ハーンの死後東西に分裂した。
1335年イルハン朝ではフレグの王統が断絶。
1348年元で紅巾の乱が起こる。
1359年ジョチ・ウルスではバトゥの王統が断絶し、傍系の王子たちを擁立する有力者同士の争いが起こって急速に分裂していった。
1351年元も紅巾の乱によって経済の中心地であった江南を失う。
1368年紅巾の乱の残党首領のひとりであった朱元璋が大明皇帝を呼称し元の大都を攻撃。元の皇帝、恵宗は上都に、更に漠南に逃れる。
1370年恵宗死去。アーユシュリータ゛ラが帝位を継ぎ、昭宗と名乗りカラコルムを本拠地とする。これが北元と呼ばれるようになり、明への抵抗を続ける。
1372年15万の明軍がモンゴルに侵入したが北元はこれを撃退。
1378年昭宗死去。その弟トグス・テムルが帝位を継ぎ、天元帝と称す。
1378年明が北満州の北元軍を攻める。
1388年この明軍を高麗と挟み撃ちにしようとしたが、明軍に大敗し、天元帝はカラコルムに背走中に、嘗てフビライの弟と争ったアリク・ブガの子孫に殺害された。アリク・ブガ家のイェスデルがフビライ家に代わってモンゴルのハーンに即位。アリク家は124年後にフビライ家に敵討ちをしたことになる。
 フビライ王統最後のハーン、トグス・テムルが殺害されたことで、モンゴル帝国を構成した諸部族は分裂した。フビライ家系と、オイラト家系を主とする反フビライ系がこの後、抗争を続ける。 明はこの後、5回もモンゴル高原に遠征したがついにモンゴル人を屈服させられなかった。そのため、北の脅威から国を守るために長城を修築して16世紀末まで、その内側に篭った。

 元が衰退した状況をいま少し説明しておく。元は14世紀中頃から、宮廷内での内紛が激しくなる。また、チベット仏教に対する信仰が深くなって、大規模な寺院の造営が相次ぎ財政を圧迫した。財政難を乗り切るために交鈔を濫発したので、中国経済は混乱して各地で反乱が続発した。

 特にマニ教と仏教を混合したような白蓮教という宗教が、一般民衆に浸透していて、この白蓮教を中心にした反乱が大きかった。赤色の頭巾を巻いていたので紅巾(こうきん)の乱と呼ばれた反乱である。

 元は始めの内は各地で起こる反乱を鎮圧していたが、そのうち面倒くさくなる。中国人から搾り取るために支配しているのに、反乱鎮圧に明け暮れていたのでは、中国支配のうまみがない。

 1368年、モンゴル人たちは中国を放棄してモンゴル高原へ退去していった。元は滅んだのではなく、去っていったのである。代わって漢民族の王朝である明が成立するが、その後も元は北元とかタタールとか呼ばれてモンゴル高原に存在しつづけてゆくのである。

執筆

加戸 信之

元JICAシニア海外ボランティア ・ 元モンゴル航空局アドバイザー

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