オデッサの風に乗れ (1)
-2007年フリーフライト世界選手権 ウクライナ大会-

はじめに

 2005年のアルゼンチン大会から早いもので2年が経った。前回大会は、わが国模型界、とりわけフリーフライト模型飛行機にとって、快挙とも言えるF1C(エンジン機)部門の世界チャンピオンが生まれた大会でもあった。

 2007年フリーフライト世界選手権は、フリーフライトの「メッカ」と言われている、ウクライナの黒海に面した都市オデッサで6月24日から7月1日まで開催されたが、F1B(ゴム動力機)部門で日本チーム団体優勝という快挙を成し遂げたと同時に、今回の大会ほどハプニングの連続は今までの世界選手権ではなかったであろう。私は前回大会のチャンピオンとして、また、団長を兼務しながらの出場であったが、今回の大会を振り返り、また、ふだんなじみのないウクライナという国を、たったの一週間であったが、肌で感じた点などを交えてここで紹介してみたい。

 フリーフライト競技については、当サイトの2005年11月25日掲載分で紹介されているので、どのような競技かを知った上でこの報告を読まれることをお薦めしたい。

F1Bチーム優勝とF1Cの個人準優勝 - 前回大会に次ぐ快挙 -

 ウクライナはフリーフライト競技発祥の地というわけではないが、旧ソ連時代から世界のフリーフライト競技をリードしており、機体や飛行テクニックといった最新技術の発信地でもある。その意味合いで、我々はウクライナをフリーフライトの「メッカ」と呼び、世界の仲間にとっては憧れの地である。一度はこの地で飛ばしてみたいし、ウクライナで開催の世界選手権で優勝をしてみたいと世界中の仲間が思っている。常勝ウクライナに、個人・団体でどの選手が、また、どの国が勝つのかに注目が集まる。  

 主催者側のウクライナとしては絶対負にけられない、自分達の威信をかけた大会でもある。参加国は39カ国。サポーターを含めた参加者総数は500名近くにのぼり、過去最大の世界選手権となった。種目別の選手数はF1A(グライダー)106名、F1B(ゴム動力機)99名、F1C(エンジン機)は73名と、前回の2005年アルゼンチン大会を大きく上回った。20才台の若手選手から70才台の選手まで、老いも若きも全く同じ条件で競う競技が他にあるだろうか?そんな大人たちを夢中にさせるのがフリーフライトである。

 勝負はわからないものである。実に多くのハンディキャップを持つ日本選手が、この大会でも前回に続く金メダルを獲得した。F1B種目の団体優勝という快挙を成し遂げたのである。そして前回のF1Cチャンピオンも準優勝という成績を残した。「ハンディキャップがあるから世界選手権で勝てなくてもあたりまえ」。そんな言い訳をし続けた日本選手も、「やればできる」という思いを強くした今回の大会であった。

チーム結成

 大会の約半年前から選手団が結成され準備がスタートした。選手選考は2005年、2006年の2年間の成績上位3名が出場の権利を有する。3種目であるからフルチームの場合の選手合計は9名。しかしながら、あくまでも趣味としてやっているわけだから、権利を有しながらも、仕事の都合で止む無く出場を辞退する選手もいる。欧米選手の場合、権利を有して辞退するなど考えられないようである。

 今回はフルチームには欠ける7名の選手と前回チャンピオンの私、そして3名のサポーターの合計11名であった。チームには団長が必要だが、選手が辞退するような日本の状況である。日本チームを率い、通訳、ツアーコンダクターも兼ねた役目を一人でこなすわけだから、団長職は非常に重責であり、2週間に及ぶ旅程で、ウクライナまで行ってくれる団長の選出は困難である。金銭面、時間的にも余裕があり、激務であるから体力も必要である。

 結局、選手のリクエストもあり、前回も団長を兼務した私がこの役目を引き受けることになったが、前回との大きな違いは、ディフェンディングチャンピオンという大きなプレッシャーを背負っていることである。今だからこそ言えるが、もし惨めな成績だったとしたら、「団長業務が大変だったから」という理由で逃げられるのではと考えていたところもあった。団長は主催者側、日本航空協会、模型航空連盟、旅行社、選手との連絡係であり、いろいろ準備をする雑用係でもある。出発までの作業量は相当なものであった。

特殊な海外旅行

 世界選手権で海外に出るが、場所や旅行の内容は一般的な海外旅行と大きく異なる。チェコ、イスラエル、アメリカ、ハンガリー、アルゼンチンとそして今回のウクライナ。これが2年毎に開催された過去10年間の開催国である。ウクライナに限った事ではないが、この旅行では模型飛行機が入った10kg以上もある大きくて重い箱(通称ガン箱)と、エコノミークラスの手荷物の制限20kgをクリアーするための最小限の衣類や道具類を小さなスーツケースに詰め込む。また、長い休暇が取れないのが現実であるから、旅程も最短でなければならない。直前に現地入りし、閉会式が終わるとまっすぐ帰国。自由時間などほとんどなく、観光などとんでもない話である。

 選手にとって、世界選手権という「戦場」で戦う武器は「愛機」である。現地まで壊れないように、また、紛失しないように持って行かなければならないが、ご存知のように手荷物の取り扱いは乱暴である。入念に荷物を梱包すれば重量が増えて高い超過料金を取られる。そんなジレンマの中での梱包をしなければならないが、もし機体が壊れなかったら非常にラッキーと思わなければならない。荷物が行方不明になって競技に間に合わなかったり、機体が壊れて泣く泣く棄権という例もある。結局、ウィーン経由が一番安心、安全とあるという結論に達した。

ウィーン出発

 6月下旬は夏の休暇シーズン真っただ中である。チェックインカウンター前の想像を絶する長蛇の列にはまいった。これではチェックインが遅れて出発に間に合わない。列に並びながら、みんなで協力して大きな荷物を手分けしながら前へ進め、やっとの思いでチェックインカウンターにたどり着いたが、ツアーコンダクターを兼ねている私のプレッシャーは相当なものである。この出来事は、今回の旅の最初のハプニングに過ぎない。いざ、オデッサへ向けて出発・・・

 旧共産圏の航空会社の便にはできるだけ乗りたくないが、今回の場合仕方がない。時代も変わって、しかも共同運航便ということで、ウクライナ航空の飛行機に乗ったが、使用機材は意外にも比較的新しい型のB737型機。機内サービスも西側に比べて大きく劣っているようには感じられなかった。機内ではツアコンよろしく、バラバラに座っている選手に入国書類の記入方法の説明で動き回っていた。初めての海外旅行という選手もいて、ツアコンの仕事の大変さを実感する。約1時間のフライトで眼下に黒海を見ながらオデッサの空港に着陸したが、ここで初めてウクライナの現実を体験する事になる。

 スムーズな着陸であったが、飛行機が誘導路へ出ると状況は一変した。継ぎはぎだらけの誘導路は砂利道を車が走っているように、ガタガタとショックが伝わってくる。オープンスポットから鉄道の駅を思わせる旧ソ連時代に建てられた小さなターミナルビルへバスで移動。折からの蒸し暑い天気で、便が到着してから館内のエアコンを入れたようでムッとする。これでも国際線が乗り入れている空港である。簡単な入国審査を済ませ荷物を受け取る。ターンテーブルがたったの1個。同じ便で到着した他国チームの大きなガン箱もターンテーブルから出てくる。手荷物を受け取って到着ロビーに出るが、自動ドアではなく扉を押し開けると、すぐ目の前に、到着客を待っている多くの現地人で狭いロビーはあふれかえっていた。ここがウクライナのオデッサ。予約していたマイクロバスはちゃんと来ているだろうか?人ごみの中に目印の「FAI(*1)の紙を持った運転手を見つけてホッとする。

(*1)Fédération Aéronautique Internationale (国際航空連盟)

新旧混在

 我々の車は18人乗りのドイツ製マイクロバス。11名の選手団だから余裕があるはずだが、かさばる大きな荷物を持っている。どうにか積み込んでいざ宿舎へ向けて出発。今までの世界選手権ではレンタカーを利用していたが、レンタカー事情があまり良くないため主催者側に相談したところ、運転手付きのマイクロバスを斡旋してくれた。レンタカーを借りるよりも経費が抑えられ、朝5時から夜の10時までの貸し切りで、リクエストに応じてどこにでも行ってくれるとのこと。良いことずくめであるが、果たして初経験のマイクロバス利用が、今回の世界選手権で日本チームに「吉」と出るか「凶」と出るか?

 荷物を積み終えて出発してすぐにマイクロバス利用は「吉」と実感できた。道路標識がチンプンカンプンで全く分からない。交通マナーはムチャクチャでおまけに大渋滞。オデッサの中心部を迂回して一路宿舎へ向かうが、渋滞は旧ソ連時代の古い車があちこちで故障していたり、のろのろ走っているのが原因だと知る。そんな中、ヨーロッパ製高級車や日本車がビュンビュンと追い越しながら走って行く。

 20数年前のモスクワを知っているが、ほぼ想像していたとおりである。車窓から見える、朽ち果てた建物群は旧ソ連時代のものであろう。そうかと思えば、建築中の高級別荘もたくさんあった。しばらくして町中を抜けると車は郊外へと出る。収穫間近の黄金色の麦畑や緑のひまわり畑。 すぐそばに黒海を見ながら、海水浴場もたくさんある。ここは保養地オデッサである。1時間半のドライブでやっと宿舎にたどり着く。

部屋がない?

 500名近い参加者を1ヶ所で収容できる宿舎はない。メインとなる宿舎はウクライナ、ロシア、欧米の主要国がいち早く予約して満杯となり、仕方なく遠い別の宿舎が提供された。事情を良く知っている欧米諸国は要領が良い。こんなところでも日本チームは出遅れている。

 意外にもインターネット環境完備のメイン宿舎に対して、日本チームの宿舎は、設備そのものは決して悪くないがインターネットはできない。受け付け、チームマネージャーミーティング、機体検査なども全てメイン宿舎で行われるため、わざわざ出かけて行かなければならない。これも不利である。国内の仲間がリアルタイムの現地報告を期待している中、競技に支障のない範囲でできるだけ情報は流したいが障害が多すぎる。

 海水浴場の保養所が我々の宿舎である。到着して最初のハプニングが待ち構えていた。事前に11名で6部屋を予約していたが、5部屋分の鍵しか渡してもらえない。英語が全く通じないのである。仕方なく主催者側担当者に電話をしてもらい話をする。担当者は良く知っている仲間である。「一部屋2名が原則で、中国チームが9名で奇数なので一緒に泊まってくれ」とのこと。「国も違うし、習慣や行動パターンも違うのでダメだ」と言うと、「メイン宿舎でも、相部屋で違う国の選手も泊まっている。良く聞け! 同じベッドに寝ろと言っているわけではない。ベッドはちゃんと2つある」。最後には、「もし中国側から来なかったら一人で泊まっても良い」との説明で、どうにか6部屋分の鍵を受け取った。「この先一体どうなるのだろう?」不安でならなかった。

 私は相部屋を覚悟していたが、中国チームは女性通訳が一人で泊まっており、現実的に無理と分かった。結局、団長の私は一人部屋であったが、宿舎はがらがらで部屋が不足していたわけではなかった。とにかく言葉が通じない。この先どうなるのだろうか?明日はいよいよ受け付日。これから世界選手権の公式スケジュールがスタートする。

 

・・・  第2回へ続く  ・・・

執筆

金川 茂

日本模型航空連盟フリーフライト委員会 委員長

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