驚きのバイコヌール (3)
-2006年スペースモデリング世界選手権バイコヌール大会-
航空スポーツ
「アメリカ、エンジン届かず」
開会式が終わると直ぐ、大会役員と各国団長は専用バスに乗り、警察官やパトカーに守られながらバイコヌール市長主催のレセプション会場へと向かった。会場は世界初の人工衛星スプートニク1号や、日本のH-Ⅱロケット、アメリカのスペースシャトルなどの模型が展示されている科学館であった。ここで昼食会が開かれたが、私の隣はアメリカチームの団長であった。食事が始まって間もなく、主催者側の通訳であるグレゴリー氏がアメリカチーム団長に近寄り、小声で話し始めると団長の顔色はみるみる蒼白になった。
「どうしたのですか」通訳の鈴木氏が訪ねると「DHLでアメリカから送った火薬エンジンの一部がモスクワで止まったまま、ここへの輸送手段が無い、エンジンテストに間に合わない」、このことは一部競技に参加できないことを意味していた。選手団長として、もっとも起こってほしくない出来事である。
モデルロケットの世界選手権大会は、手作りしたロケットを指定された推力の工場製火薬エンジンをつけて飛翔させ、高度や滞空時間を競う競技である。そのため使用する火薬エンジンは、指定された時間内に主催者が行うエンジンテストに提出し、推力が規定に合致しているかを点火して推力測定が行われ、合格したエンジンだけが各国チームごとに封印された箱に収められ、競技開始とともに審査委員から渡される。従ってエンジンテストに間に合わなければ、選手がいても競技不参加になるのである。
「エンジンテスト直前の中止」
私と各国団長が開会レセプションに出席している同時刻、濱田氏と水間氏は通訳とともにエンジンテストが行われている「インターナショナル・スペース・スクール」に向かっていた。手に入れたエンジンを、前日から始まっているエンジンテストに提出して合格させるためである。エンジンテストは2日間の指定時間内に行われるため、今日合格しなければスタート前にリタイアとなる。
実は前日のエンジンテストに日本チームは手に入れたエンジンを持って順番待ちをしていた。しかし、どこの国も決められた推力ギリギリで火薬エンジンを製作してくるためCATO(CAtastrophic Take Off)と呼ばれる異常燃焼を起こすエンジンが続出して測定器が故障し、テストは遅れに遅れていた。F1レース用エンジンがスタート直後に壊れてしまうのと同じで、世界最高峰を狙うことは故障と紙一重の世界なのである。
午後6時になり5時間以上待っていた日本チームの測定順番が来るまでに、あと1個のエンジン測定となったその瞬間ボンという音でCATOが起こった。主催者側の測定員より測定器が壊れたので今日はこれで終了、明日10時より再開という言葉に「予備の測定器は無いのか」と濱田氏が聞くと、「無い」の一言。そこで明日は日本チームから始めることを約束してもらった。
しかし、あとで分かったのだが実際に測定が始まったのは午後1時過ぎであった。理由は測定責任者が開会レセプションに私たちと一緒に出席していたからである。結局、濱田氏と水間氏はエンジンテストを完了するために2日間8時間以上待たされた。この国では待つことがあたりまえのようである。
「サインの列は終わらず」
濱田、水間両氏の努力により、エンジンテストも無事終了し、登録手続きも完了した。選手たちも自分の種目が始まるまでは先に出場する仲間のサポートに入る。いよいよ競技が始まる。やっと落ち着いて競技に集中できると思った矢先、今度は大変な事態が待っていた。
我々の止まっているホテルから飲み水を買いに400mほど前の店に行こうとすると、ホテル前で待ちかまえている子供たち数十人にたちまち囲まれ、「サイン、チェンジ・マネー」の声が響き渡る。ニコニコしながら立ち止まってサインを始めると、何十回書いても終わらない、1時間書いても終わらないサイン攻めに、不思議に思い顔を上げて驚いた。子供たちの数が数倍に膨れているのである。
次々と現れる群衆に身の危険を感じるようになり、ついに、ホテル前に子供の姿が消えてから店へ行くようになってしまった。地元の子供たちにとっては生まれて初めて25か国もの知らない国が来たのだから、サインや硬貨の交換をしてほしいのは理解できるし、大会会場では出来る限りすべての国の選手が見学に来た子供たちにサインをあげている。
しかし、日を追ってエスカレートするサイン攻めに、どうやら子供たちの間で、サインの数を競っている遊びとなっているとのことが見えてきたのである。意味は違うかもしれないがヨン様といわれる韓国スターの気持ちが少しは理解できたような気がする。スターとは大変な職業だと。
「中国もエンジン届かず」
競技がスタートしてからは、朝5時起床、6時に食事し7時にはバスに乗り込み、25台がパトカーの先導で国境を越えて大会会場に向かう。8時から準備、9時には競技開始である。アメリカチームのS7スケール競技用の火薬エンジンがモスクワで止まったまま到着しなかったことは知っていたが、まさか中国チームもエンジンが到着していなかったことは誰も知らなかった。
このことは選手から伝わってきた。「中国チームはエントリーしているにもかかわらず、誰も発射台に来ていない」、そんな馬鹿な、競技はとっくに開始している。これで理解できた。実はエンジンテストの翌日、濱田氏から「中国チームが各国にエンジンを分けてくれと顔色を変えて走り回っていた、もしかしてエンジンが届いていないのではないか」、しかし、翌日のエンジンテストには参加していたため、エンジンが用意できたのだと理解していたのだった。
つまり7種目ある競技のうち、1種目のエンジンが到着していなかったのだ。私は確認のため、コンクリートで作られた広い通路の左右に並んでいる各国テントを眺めながら中国チームのテントの中を数秒見てみた。すると一番奥に、肩を落とした中国チームの団長の姿が見えたのである。もしかしたら、私も同じ運命になっていたかも知れないと考えると、気の毒で仕方が無く、同じ団長として競技はまだあると心の中で励ましていたのであった。
「感動のバーン・エステス夫妻」
S3パラシュート滞空時間競技、S4ブースト・ロケットグライダー滞空時間競技と予定どおり競技日程が進んでいく。時間がルーズだから大会運営は失敗するなどと考えたことは、今となっては撤回することとなった。予定どおりの進行である。大会を運営するロシア・カザフスタン両国は実に素晴らしい!
現地に到着して5日目の日曜日、今日は待ちに待った競技が無いホリディである。人類初の宇宙飛行士、ガガーリン少佐が1961年に宇宙へ出発した発射台へ行く日である。この発射台はいまだ現役で使用され、1990年には日本人初の宇宙特派員、秋山豊寛氏も使用した発射台である。宇宙の歴史の原点、ロシアの国宝級といって良い代物である。ちなみに、私はテレビ番組「開運、何でも鑑定団」の宇宙物の鑑定士をしているため、余計にガガーリン発射台の価値を評価してしまうのかも知れない。
すべての参加国が一緒に移動するため、一度待ち合わせ地点で時間調整が行われた。私は日本から持参した本をお世話になっているアメリカチーム団長に手渡そうと、彼らのバスに乗り込んだ、入り口近くに団長がいたので私は、「この本は、私たちの協会が小学校用に制作したもので、米国ロケット協会とエステス社のお世話になり完成したので記念としてプレゼントします」と話した。
エステス社とはモデルロケットが1958年に誕生して以来、世界最高のモデルロケット教材を生産している会社で、創業者のバーン・エステス氏は米国では歴史を作った人物として、エジソンのように伝説の人物なのである。私はエステス氏に1992年のアメリカ大会でお世話になるとともに、日本モデルロケット協会を設立する際に、当時の通産省へのモデルロケット安全白書など多くの資料を提供していただい経緯から神のように尊敬している人物である。彼の協力無くしては、日本でのモデルロケット打ち上げは未だ実現出来ていなかったかも知れないのである。
ひととおり本の中身とエステス氏にお世話になった話をアメリカチームの団長に話していると、私の肩を後ろからたたく人物がいた。振り向いた次の瞬間、私は驚きのあまり「Oh, God」と叫び、腰から床に崩れ落ち涙が止めどなく流れたのである。私の肩をたたいた人物こそ、80才を超えてもカリスマであり続けるバーン・エステスとグレダ・エステスご夫妻だった。まさかご高齢のエステスご夫妻がアメリカからバイコヌールに来られているとは、まつたく想像もしていなかっただけに、嬉しさは私の人生の中でも現皇太子殿下にお会いしてモデルロケットをご説明させていただいたときと同様の最大級のことであった。
エステスご夫妻の長年の希望は、生きている内に世界の宇宙ロケットの始まりであるバイコヌール宇宙基地に行ってみたいことであった。しかし、ソビエト連邦最高機密であるバイコヌールに当時の敵であるアメリカ人が行くことは出来ず、49年間待って今回のチャンスに人生を託したとのことであった。
この一件以来、私とエステスご夫妻は行動を一緒にさせていただくことが多くなり、米国チームに同行していた記者から一緒の写真を数多く撮影していただいた。また米国チームは、エステスご夫妻のための特別チームを編成して大会に参加していることも知った。ロシア側もエステスご夫妻には国境通過に特別車を用意していた。
私の友人に、イタリアのアントニオ・マザラッキォ選手がいる。彼は子供の時にお父さんからエステス社の発射台とコントローラー、ロケットがセットになっているモデルロケット・スターターセットを買ってもらった。このセットは段ボールの箱にロケットが描かれた専用の携帯ケースに入っていて、お父さんが亡くなった後も、世界大会に出場するたび、心は、お父さんと一緒に参加しているといって、必ず何十年も経って古くなったケースを持って参加していた。この事実を知っている私は、彼の憧れでもあるバーン・エステス氏が、この大会に来ていることを知らせようとアントニオを探した。しかし、すぐに出発の合図が出され、知らせることは後になってしまった。
・・・ 第4回へ続く ・・・