あの頃のチューリッヒ (1977-78年)
-ドイツ赤軍とルフトハンザ-

 今年(2005年)8月、神保町の岩波ホールで、上映時間が6時間06分という長編イタリア映画、「輝ける青春」を見てきた。6時間といえば、飛行機でバンコクやホノルルに到着している時間であるが、私とほぼ同時代に青年期をすごしてきた主人公たちを描いた映画であり、まったく退屈することなく映画のなかに浸ることができた。 ランチ休憩30分をはさんだ全時間、座り続けることからくる苦痛は感じなかったが 「深部静脈血栓症」を防ぐため、足をこまめに動かすようにこころがけた。

 1966年から2003年のイタリアの政治状況に重ねて描かれた、あるイタリアの家族の喜びや悲しみが織り成す物語に、すっかり引き込まれてしまった。この映画のなかで、主人公の妻はトリノ大学での学生運動を経てイタリアのテロリストグループ「赤い旅団」の活動家となり、テロに加わるようになってしまう。

 赤い旅団はミラノ、トリノなどイタリア北部工業都市を中心に、実業家や裁判官などの誘拐・殺人、工場・事務所の爆破などのテロをおこなっており、1978年3月にはモロ・イタリア首相を誘拐、殺害している。

 この赤い旅団のテロ活動の場面をみて、私は1977-1978年にスイスのJALチューリッヒ支店に派遣されていた頃、ドイツ赤軍のテロリストと間違われ、あやうく撃ち殺されそうになったことを久しぶりに思い出した。

 現在は別の場所に移っているが、当時JALチューリッヒ支店はペリカン通り37番地(Pelikan Strasse 37)のビルに入っており、支店に向かって左隣がサベナ ベルギー航空(2001年11月、経営破綻し会社清算)、向かって右隣がルフトハンザ ドイツ航空であった。

 1968年頃に結成され、テロ事件を起こしていたバーダー・マインホフ グループは後にドイツ赤軍を名乗る。(この名称は日本赤軍を模倣したものと言われている) 1972年、中心的メンバーのアンドレアス・バーダー(男性)とウルリケ・マインホフ(女性)は逮捕され、シュツッツガルトのシュタムハイム刑務所に収監される。

 マインホフは1976年に刑務所内で自殺するが、1977年、バーダーらを奪い戻すための要人の誘拐・殺人は下表のとおり、激しさを増していく。1977年9月5日、シュライヤー西ドイツ経営者連盟会長が誘拐されてから、10月18日、獄中のバーダーらが自殺するまでの44日間は後に、”ドイツの秋(Deutscher Herbst)”と呼ばれるようになる。

1977年にドイツ赤軍がおこしたテロ事件
4月7日
ジークフリート・ブーバック・西ドイツ連邦検事を殺害。
7月30ユルゲン・ポント・ドレスデン銀行会長を殺害。
9月5ハンス・マーティン・シュライヤー・西ドイツ経営者連盟会長を誘拐し、獄中のアンドレアス・バーダーらの釈放と身代金1,500万ドルを要求。
10月13日~パレスチナゲリラがスペイン パルママヨルカ発のルフトハンザ機をハイジャックし、シュライヤー会長とアンドレアス・バーダーらとの交換を要求。機長はイエメンのアデンで殺害される。10月18日、ヘルムート・シュミット率いる西ドイツ政府は特殊部隊を派遣、ソマリアのモガディシュに着陸したハイジャック機を急襲し、ハイジャック犯3名を射殺、1名を逮捕、人質全員を救出した。同日、ハイジャックの失敗を知ったバーダーらは獄中で自殺。10月19日、ドイツ赤軍は誘拐したシュライヤー会長を”処刑”したと発表、遺体はフランスで発見された。
(備考)同年9月20日、日航機がインド上空で日本赤軍の5人にハイジャックされ、バングラデシュのダッカへ強行着陸する”ダッカ事件”が発生。当時の福田首相は「人命は地球より重い」と述べ、赤軍派系の服役者ら6人を超法規的措置としてテロリストへ引渡したうえ、身代金600万ドルの支払った。この日本政府の対応は欧米の「テロリストや過激派と交渉せず」という姿勢に逆行するものとして国際的な非難を受けた。

  こうした状況下、ドイツ赤軍は上空を飛ぶルフトハンザ機に地上から照準を合わせて撃ち落そうとする合成写真を堂々と発表さえしていた。(新聞紙上に掲載された有名な写真だった。この文に貼り付けようとインターネットで検索したが見つからなかった) このため、ルフトハンザのチューリッヒ支店にも拳銃を携行したガードマンが配置され、常時警戒をしていた。 

 そんな緊張のつづくある日、私はビルの地下倉庫にギブアウェー(お客様に差し上げるギフト)をとりに行った。ビルの地下倉庫は入居テナントのそれぞれのオフィスの階段から鍵を使っておりていく。階下にはテナント共通の地下スペースに各テナントの倉庫があり、JAL倉庫はルフトハンザ倉庫の隣にあった。

 ご存知の方もあると思うが、スイス(スイスに限らない?)の照明器具のなかには、スイッチを押してから一定時間しか照明されず、時間がくると照明が切れ真っ暗になってしまうものがある。ナチスの迫害を逃れてスイスにやってきたユダヤ人が持ち主であるビルの地下照明もこの類であった。倉庫でかなり以前に調達されたカウベル(牛の首にとりつける大きなベル)のミニアチュアを探しているうちに、照明が切れてしまった。

 暗い中でゴソゴソと物音をたててカウベルを探し続けていると、突然ドイツ語の大きな叫び声が聞こえた。オフィスでの使用言語は英語であり、ドイツ語はわからない。どうしてよいかわからずそのままにしていると、突然、明かりがつき私に銃をむけているガードマンの姿が目の前にあった。

 明かりのなかで、呆然と立ちつくすカウベルを持った私と銃を持ったガードマン。 ガードマンは航空会社の制服を着た東洋人の私の姿を目にしたことがあったのであろう、ドイツ赤軍のテロリストが潜んでいたのではないと理解したようだった。すぐに銃をおろし一瞬、何かいいたげな表情をしたが、そのまま立ち去った。

 言葉ができないということは、テロリストと間違われて撃ち殺されてしまう危険もともなうのだと思った。地下から階段をあがってオフィスに戻り、スイス人の同僚にこの顛末を話したのか、それともあまりにびっくりして自分の胸にのみ、おさめたのか28年たった現在、思い出せないでいる。

編集人より
あの頃の・・・・・・と題して、国内外の出張や駐在での興味深い話を掲載したいと思います。WEB上で皆様のあの頃の経験や思い出を読者と共有してください。
ご投稿をお待ちしております。

執筆

横山英利子

(財)日本航空協会

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