東京帝大航空学科(昭和2年)5回生同期生(その2)
歴史
[航研機(2)]
航研機の翼が深紅であるのは、いかにも時代を映す配慮があった。
あの当時の飛行機というのは、みんなネズミ色とかカ-キ色、あるいはジェラルミンの肌の色そのままで、いまのような派手な色は塗らなかったものです。航研機の場合は、満州の大平原で記録飛行するはずでしたので、その場合、不時着したとき、上からすぐ見つけられるように、目立つ色にしようというわけで、航研の心理部の先生たちに選んでもらったのです。そうしたら、赤、それも少し黄色味がかった赤、緋色というんですか、それが一番いいというので、主翼のほとんどと尾翼の一部を赤く塗ったのです。きれいな色を選んだのではなかったのに、飛んでみると、本当にきれいでした。
(略)
ソ連の有名な設計者のツボレフさん、あの人が航研機が初飛行した昭和12年に、モスクワからアメリカ西海岸のバンクーバーまでANT25で北極横断の無着陸横断に成功している。その飛行機のことは、当時から知っていましたが、当時の写真は白黒なので色までは分からなかった。ところが、戦後、ソ連を訪れてツボレフさんに会ってANT25の話をすると喜びまして、模型を見せてくれた。すると何と航研機と同じ色。北極の氷上に不時着したときのことを考えて赤く塗ったというんです。人間の考えることって同じだな、とつくづく思いました。
出典:『私の世界 木村秀政』⑬,読売新聞社夕刊,1982・11・5
航研機は、ふだんは羽田の海防義会の大格納庫に翼を折り畳んでしまってあったが、NHK/BS2が平成8年7月26日に全国放映した4時間番組「東大先端研」のなかの一画面、敗戦直後に撮られたというた写真をみると、翼が胴体から切り離されている。その胴体も米軍が羽田の滑走路を延長した際、格納庫の残骸と一緒に地中に埋められてしまった。航研機の世界記録は翌年4月にイタリアのサボイアS82が12,936kmの公認記録を出して更新された。イタリアのこの記録は大戦後まで破られなかった。
[A26]
このあと、航研では木村が機体設計の主任となってA26をつくる。昭和15年が皇紀2600年に当たることから、朝日新聞社が記念に、東京~ニューヨーク無着陸親善飛行の計画を立てて、その飛行機の作成を航研に依頼したのである。Aは朝日新聞社のア、26は皇紀2600年の略。航研機と同様に純粋な航続距離に挑戦する実験機であった。しかしA26は後に書くように実に運の無い飛行機であった。日本が大東亜戦争に突入していった昭和16年12月8日がその非運のスタートになった。
真珠湾攻撃の勝利は航空機の重要性を陸軍に認識させるところとなり、航空機増産に走らせた。A26の製作は立川飛行機が引き受けていたが、民間学術機の方は不急作業として製作中止の状態となった。そして12月11日の飯沼パイロットの不慮の死。飯沼は本人も望み、周りも期待したA26に一番似合う操縦士だった。昭和17年4月、米軍B25が日本本土を空襲した。この本土初空襲に日本軍の受けた衝撃がA26の製造を再開させる圧力となった。2カ月後のことである。A26が民間の平和目的の飛行機だなどと言える場面ではなくなっていた。
A26は2機試作された。うち1号機が昭和19年夏、満州で16,435kmと航研機の記録を抜いた。しかし、これは戦争中のためフランスにあるFAI本部と連絡がつかず公認にはならなかった。フランスは1940年からナチス・ドイツ軍に占領されてウィシー傀儡政権となっていたのであるが、フランス人は1945年のドイツ軍敗退まで全土で根強いレジスタンス運動を繰り広げていた。ウィシー傀儡政権を承認していた枢軸国日本に対して、レジスタンス闘士達が故意に公認をし忘れたのであったろう。とんでもないとばっちりを受けて、A26にはいい迷惑であった
A26は末路もまた悲劇的であった。1号機は終戦後、米軍に接収され、空母に積まれて米国本土に向かったものの、太平洋上で甲板から荒波にさらわれて海底に沈んでいった。2号機は昭和18年、日独連絡飛行に極秘で福生飛行場(現・横田飛行場)から飛び立ったが、インド洋上で英国戦闘機に撃墜された。悼んでくれる人もないままに・・・
昭和20年(1945年)8月敗戦。11月18日連合総司令部から航空苓止令が出た。航空研究所は廃止され、理工学研究所が設立された。
理工研の定員枠は航研の半分にも満たない。何人かは辞めなければならなかった。醜い争いがおきた。「戦争に協力した奴は、真っ先に辞めろ」。結果として、木村は東大教授の座を去った。辞令には「航空研究所官制廃止により自然廃官」とあった。恩師の田中敬吉、小川太一郎も、航研機やA26で苦労を共にした仲間たちも東大を去っていった。
木村は言う。「われわれが首になった決め手は、戦争への協力の度合いだったようだ。・・・・・私は、陸海軍の飛行機の性能を少しでも向上させるために、夢中になって仕事をした。祖国が戦争に入るとき、それを阻止できなかった以上、祖国のために身命をなげうってその方針に従うのは当然であると思った」。
昭和22年9月、航研時代の同僚粟野誠一に誘われて、日本大学工学部に職を得た。
昭和35年、日本航空協会は「各種の航空機の研究および開発に貢献した」としてFAIポール・ティサンディェ賞を授与して木村の栄誉をたたえた。
[堀越二郎]
群馬県に明治36年6月22日生まれる。昭和57年1月11日没。
群馬県藤岡中学、一高卒業、昭和2年、東京帝大航空学科卒業。三菱航空機入社。4年6月、社命によりヨーロッパ視察旅行。ドイツでユンカースの製造基地を訪問。ヨーロッパからアメリカへ。カーチス社P6戦闘機等を見学。5年秋、帰国。
昭和7年、海軍では航空自立計画がスタートした。大正から昭和初期にかけての日本の航空機は、ほとんど外国人の設計によるものか外国機の模倣であった。欧米諸国の技術の模倣である以上、日本の航空機の性能は一歩も二歩も立ち遅れることは自明の理である。航空技術の分野における後進国意識を拭い去るべく、海軍首脳部が考えたのが、分散している航空関係の諸機関を統合して、航空機の研究、試作、実験、審査を一貫して行うことのできる総合機関「海軍航空廠」を設立することだった。これは14年4月1日海軍航空技術廠(空技廠)となる。
開所したばかりの海軍航空廠から三菱は昭和7年度海軍用飛行機試作計画(七試計画)を受け、堀越は入社わずか5年目にして七試艦戦の主任設計者に任ぜられる。堀越はそれまでの複葉機のコンセプトを捨て、低翼単葉に挑戦した。
日本は翌8年、国際連盟を脱退。戦争の足音は日本中に響き渡った。
ともあれ、七試計画の成功に自信をつけた三菱は9年2月、航空廠が九試計画を発表すると、堀越に九試単戦の開発を命じた。10年2月、試作機1号機が完成し、最初のスピードテストで時速440kmの世界新記録を出した。2カ月後試作機2号機が完成した。この画期的性能は海軍はもちろん、陸軍にも大きな衝撃を与えた。後に陸軍は九試単戦の性能を九七式戦闘機(キ27、これが後のキ43一式戦闘機『隼』。陸軍機では最高の5,751機が生産された)として採用した。九試単戦は昭和10年、制式採用となって九六式艦戦と命名された。堀越の評価は不動のものとなった。
昭和12年、堀越は十二試艦戦の設計に入った。海軍からの性能要求には二律背反の項目が並んだ。このとき引込脚に挑戦している。この頃日中の関係は一触即発の状況にあった。既にヨーロッパではナチス・ドイツがポーランドに侵攻して第2次大戦が始まっていた。当然のように航空廠、後に空技厳からの設計要求は三菱にとっても堀越にとっても厳しくなる一方で、高性能を求めて設計関係者と共に心血を注ぐ日々が続いた。わずか数mgの重量軽減のために設計者たちは何度も何度も再検討を命ぜられ、図面の書き直しを余儀なくされた。このため「堀越さんでなく、根掘り葉堀越しさん」と陰口されたほどであった。堀越は体があまり強くなく、自宅に休むことが多々あったが、寝ても覚めても考えることは戦闘機のことだったという。
昭和15年、十二試艦戦が7月24日付で新しい主力艦上戦闘機として制式採用された。その正式名称は、この年の皇紀2600年の末尾の数字「0」を採って、『零式艦上戦闘機』と名付けられた。以来十二試艦戦が『零戦』の名で呼ばれるようになったのである。『零戦』の制式採用が決まると同時に九六式艦戦の生産は打ち切られ、零戦の量産が始まる。九六式艦戦に代わって艦戦部隊の全機数を占め、ハワイ真珠湾攻撃、マレー、フイリッピンの海戦で制空権をとることになる。零戦二一型の実力であった。
空技廠の苛酷な改修・改造要求の日々から終に胸を患った堀越は、昭和16年12月8日の日米開戦の臨時ニュースを一時療養していた自宅の群馬県藤岡で聞いた。堀越は文学少年だった。長じて哲学者の風貌を帯びていった長身痩躯の堀越の性格を木村は「綿密で粘りこくて緻密な男。そのかわり要領はよくない。ひとつの方針をとことんまで貫く。それで零戦も設計できたと思う。」と評した。
ノンフィクション作家 柳田邦男は「零式戦闘機」についてつぎのように書く。
零戦とは、日中戦争後期から太平洋戦争を通じて5年間も、旧日本海軍の主力戦闘機として戦い抜いた零式戦闘機のことである。海軍がいかにこの機種の活性に期待をかけ、身をゆだねていたかは、その生産機数の驚くべき数字がはっきりと示している。零戦の総生産機数は10,430機で、陸軍の-式戦闘機「隼」の約2倍。戦闘機の1機種でこれほどまで大量生産された例は世界にもない。今流の言葉を借りるなら、零戦とは海軍のベスト・ブランドだったのである。
これだけの数を製造された零戦も、戦後50年以上たった今日、世界中で完全な姿で残存しているのは、わずか数機しかないという。米国ワシントン・スミソニアン博物館に二一型1機と五二型1機の2機、カリフォルニアのクレアモント市の私設マロニー航空博物柁に五二型中島製1機、英国に1機、ニュージーランドに1機。この他、西南太平洋の島しょに今なお雨ざらしになっているものがどれだけあるのか、誰も知らない。
[土井武夫]
山形県山形市香澄町に明治37年10月31日生まれる。平成8年12月24日没。
中学校を4年で修了して山形高等学校理科甲類へ進学。東京帝大航空学科卒業。
(株)川崎造船所飛行機郡にアプレンティスとして入社。日給1円50銭の工員待遇である。7名の同期入社のうち4名は設計に配属された。そのうちの1人と土井は陸軍戦闘機、1人は海軍の海防義会発注飛行艇、残る1人が同艦上偵察機の設計に回された。土井はドイツからやってきていたフォークト博士の下で昭和8年(1933年)まで設計に携わる。その間1年間半を社命によりヨーロッパに滞在して航空機工業の研究をしている。フォークト博士の帰国後、土井が川崎航空機(株)設計陣の中心として戦後まで活躍する。
堀越二郎が三菱で海軍の戦闘機『零戦』設計に着手しはじめたのと時を同じくして、土井は陸軍の戦闘機『飛燕』の設計命令を受けていた。昭和15年、陸軍は川崎に戦闘機キ60とキ61の試作指示を与えたのである。土井は黙々とキ60の設計製作にとりくんだ。キ60は主として速度性能、武装に重点をおいた重戦闘機で、キ61は速度と運動性に重点をおいた軽戦闘機で、いずれも最大速度時速550km以上という条件付である。
土井はキ60の試作機を翌年3月に完成し、キ61の試作第1号機をその年12月に完成した。堀越が設計した零戦が火ぶたを切って華々しい戦果を上げた日米開戦直後のことである。キ60は陸軍の性能要求に十分合致する戦闘機であったが、続いて完成したキ61が予想外の好性能を発揮したため、惜しくも制式機とはならずに試作3機で終わった。各務原での飛行試験でキ61の試作第1号機は陸軍の性能要求をはるかに越える当時としては驚異的な時速90kmを出し、その後の陸軍審査に優秀な性能を実証していく。状況が求めるまま17年8月にはやくも三式戦闘機『飛燕』として量産第1号機が完成した。18年春からニューギニア戦線に投入され、戦争末期の本土防衡戦でも活躍した。『飛燕』は終戦までに3,159機製造された。
昭和20年8月の敗戦から25年7月の川崎重工復帰まで、土井も他の2人同様に苦しい生活を強いられたが、航空禁止令が解除された27年の夏、川崎重工業の中でようやく航空機設計の仕事に戻った。航空に戻るまでのこの数年間、土井は世界の航空機の進歩から取り残されることが無かった。それは、大学同窓の木村の友情であった。
木村はA26のために42歳の「いよいよこれから」という油ののりかかったところで東大教授の座を追われたが、戦後、進駐してきたアメリカの軍人やジャーナリストがひきも切らず木村を訪ねた。かれらはA26のことをよく知っていて、その設計者に興味をもっていたのである。木村の人となりを知り、A26のような平和目的である航空機の設計者を一律研究禁止に付すことに疑問を感じるアメリカ人は少なくなかった。かれらは帰国すると、専門の雑誌や本をどんどん送ってきてくれた。木村はこれといってすることが無い毎日なので、受け取った本や雑誌をむさぼり読んだ。学校を出てから一番集中して勉強したのが航空禁止期間であった。
土井は無聊な日々、木村から時折「航空に関する技術関係書」を見せてもらっていたという。「木村君とは、初対面のときからウマがあった」と後年執筆した回顧録「飛行機設計50年の回想」に述べている。航空界が再開なったとき、木村も土井も世界の航空技術にあまり遅れることはなかったのは、そうした友情の賜物だったのである。
川崎重工業は、土井の功績を称えて、岐阜県各務原に平成8年3月に開設された航空宇宙博物館内に「土井コーナー」を設けている。
土井の『飛燕』は、鹿児島県知覧町の知覧特攻平和会館に1機展示されている。
[YS11プロジェクトで3人が再会]
昭和16年12月8日、日本は第2次大戦に参戦した。木村、堀越、土井の3人はそれぞれ大学、海軍、陸軍において航空機設計にかかわっていたが、かれらの関心は「いい飛行機をつくること」がすべてであった。しかし20年8月15日の敗戦を経て同年11月18日連合総司令部による航空禁止令は、かれらの上に一律に容赦無く発動された。昭和27年4月28日サンフランシスコ講和条約が発効し、航空禁止令が解除されると、戦後復興策の一環として、通産省は昭和31年5月、中型輸送機の国産計画を発表した。我が国の航空工業が一本立ちするためには、需要が不安定で機種変動の著しい防衝産業だけに依存することは、リスクが極めて高く先行きに心配があるので、民間需要としての中型輸送機の国産を計画するとの理由である。
航空工業界はこの提案に全面的に賛成し、昭和32年(1957年)財団法人輸送設計研究協会をつくり、通産省からの補助金のほかに、三菱、川崎、富士、新明和、日本飛行機、昭和飛行機の機体6社の負担金によって研究に着手した。さらに、中型輸送機の設計は日本の総力結集が必要との認識から、大学研究所、航空輸送会社などの協力と応援を受けることに決まった。開発の実務を受け持つ「技術委員会」が設けられ、当時日大教授の木村秀政が委員長となり、その下に空力小委員会(谷一郎東大教授)、電子小委員会(岡田実東大教授)、計器小委員会(佐貫亦男東大教授)、構造強度小委員会(山名正夫東大教授)が専ら各分野での実用的研究を行うことになった。「技術委員会」と並んでYS11のデザインと基礎設計を担当する「共同設計室」が設けられ、内部に企画班、空力班、構造班、艤装班が作業を分担することとなった。構造班主任に堀越二郎、艤装班主任に土井武夫が参加した。因に、企画班、空力班の主任はそれぞれ旧中島飛行機で『隼』に参画した太田稔、旧川西飛行機で『紫電改』を設計した菊原静男であった。「5人のサムライ」木村、堀越、土井、太田、菊原を擁したYS11は世界でも超一流の設計陣を揃えた。
YS11は日本が世界に誇る唯一の純国産航空機である。初飛行が昭和37年8月30日、型式証明取得39年8月25日、40年4月には日本国内航空(現在の日本航空ジャパン)に就航した。48年に製造中止となるまで試作機2機を含めて182機が生産された。今日、製造された機体の半分がまだ現役で日本や世界の空を飛んでいる。
ところで、YS11の名前の由来だが、輸送機のY、設計のS、機体とエンジンがそれぞれ第1号ということで1,1である。
東大航空学科同期生3人を特徴づければ、木村は東京・青山で幼少期を過ごして都会的楽天的雰囲気をもち、堀越は上州の頑固さに哲人の趣をたたえている。この2人に対して、土井は古き良き職人気質の気風をにじませる懐の深い設計者であった。この3人を、日本航空協会は理事として長く遇している。
[注] 以上は、「先端研探検団第三回報告書」に同名で発表したものを一部手直ししたものである。ここにお断りをしておく。