オデッサの風に乗れ (5)
- 2007年フリーフライト世界選手権 ウクライナ大会 -
航空スポーツ
中国、北朝鮮、モンゴル
欧米各国で盛んなこの競技も、残念ながらアジアからの参加は今までは中国と日本だけだった。今回はDPRK(北朝鮮)、モンゴルが加わった。20数年前の中国チームはオリンピックの選手団のようだった。趣味として楽しんでいる西側の選手が集う世界選手権に、旧ソ連や共産圏諸国と同じように真剣勝負で取り組んできた。国家の後ろ盾があり、中国が過去の世界選手権で団体優勝した時のご褒美は家一軒だったそうだ。
改革が進み、今の中国チームには当時の面影はない。国家の後ろ盾がなくなった今、かろうじて模型を続けられるのは多少の余裕がある人と模型飛行機の情熱を絶やさない人だけ。個人、団体成績にかつての栄光は見る影もない。
昔の中国選手チームそのままの姿で、今回、北朝鮮が16年ぶりに華々しく国際舞台に返り咲いた。1970年代には世界選手権で優勝したこともあったが、その後国際舞台から姿を消していた。団長、副団長、通訳、サポーターと選手の15名の大選手団。しかも前述の「黒海カップ」にも出場して、充分な態勢で世界選手権に臨んでいる。
一糸乱れぬ選手の行動は異様な雰囲気であった。選手はアスリートそのものであり、自分の機体は自分で回収する。トランシーバーや双眼鏡、発信機などのハイテク装置は一切持たず、ものの見事に機体を回収して何キロも走って帰ってくる。視力が良いから上空で「点」のように小さくなった機体も肉眼でも見えるのだろう。
フリーフライト競技は身体能力で機体の性能をある程度カバーでき、国際舞台から遠ざかっていたとは言え、まずまずの成績を上げた。昔の中国チームもそうであったように、直前に行われた強化合宿のせいと思われるが、全員が真っ黒に日焼けしていた。現在、世界で唯一のプロ集団と言える。次回からはかなり上位へ食い込む事はほぼ間違いないであろう。
初参加のモンゴルは今回FAIのメンバーに正式加盟してエントリーをしたが、ビザ発給のトラブルでウクライナに入国できず、モスクワに戻って大使館の手続きを済ませてどうにか現地入りしたのは競技が始まってから。涙をのんだ。モンゴルもこれから国を挙げて子供達に模型飛行機を広める活動をすると聞いている。昔の中国のように国がサポートする体制が出来つつあり、まず手始めがフリーフライト模型であり、健全な模型飛行機普及活動が行われるようだ。
この競技は欧米主導で、今まではアジアからの参加が少なかったが、アメリカ、カナダ、オーストラリア、ニュージーランドにアジアの国を含めた、「環太平洋諸国フリーフライト選手権」の構想も夢ではなくなってきた。ヨーロッパ選手権に対抗したものが実現するかもしれない。日本チームが今後活躍したとしても、日本での開催はあり得ない。世界選手権を開催できる広い場所がないのである。
閉会式
全ての競技を滞りなく終了して、30日の夜には宿舎から車で1時間ほどのところのナイトクラブを借り切って表彰式とバンケットが行われた。時間どおりに始まらないのは開会式と同じで、1時間半遅れでセレモニーはスタートした。会場となった施設は、いわゆるニューリッチ層を対象とした豪華なナイトクラブ。今までに経験したことのないような派手な演出の表彰式であった。庶民の生活をつぶさに見てきたこの1週間であったので、経済的な格差が広がっている現状をまざまざと見せつけられた感じがする。
ハンディキャップだらけの日本チームの活躍は今回の大会ではひときわ目をひいた。団体優勝はF1A(グライダー)、F1C(エンジン機)の2種目でハンガリーが、F1B(ゴム動力機)が日本である。そして個人種目でもF1Cの2位となった。個人種目ではウクライナの選手も表彰台に立ったが、決してぶっちぎりのウクライナの勝利ではなかった。
さようならオデッサ
深夜まで続いたバンケットも終わり、翌日が出発日である。各国チームが三々五々宿舎を離れていく。大きな荷物を積んだ我々のバスも、最後のお役目として我々を空港まで運んでくれる。仲良くなった運転手とも今日でお別れだ。終わってみれば、1週間という時間があっという間に過ぎ去ってしまったが、畑は花を咲かせたひまわりで見事な黄色に変化していた。
薄暗い早朝から真っ暗になるまで、連日、宿舎とフィールドの往復で睡眠時間は3,4時間。よくこの一週間耐えてきたものだ。しかし、好きな模型飛行機のことだけを考えて、一週間も過ごせるのは幸せな事かもしれない。
空港へ向かう途中、町中でバスが急に路肩に止まってしまった。後輪がパンクしてしまったのだ。「空港までたどり着けるか?遅れたら飛行機に乗れなくなってしまう?」と非常に心配したが、運転手が手際よくタイヤ交換してどうにか空港へ到着。パンクは「凶」と出たが、結果は事故もなく、全てがうまくいき、総体的にマイクロバスの利用は「吉」であった。
帰国する大勢の各国選手が出発ロビーで飛行機を待っていた。杖をついているものの、背筋がぴんと伸びた老人がそばに寄ってきた。そういえばこの人はフィールドで見かけたことがある。私が表彰台に立ったので日本チームの団長だと知って話しかけてきたのだろう。その老人が言った。「私は1950年代から世界選手権に出ている。現在78才で今回のウクライナ大会が自分にとって最後の大会だと思ってやってきた。次の2009年クロアチア大会にはもう参加は出来ないが、いろいろな思い出があった」。
この言葉を聞いてジーンとくるものがあった。50年以上にもわたって大人たちを虜にするフリーフライト競技。本当にやっていて良かったと思っている。
オデッサの空港を飛び立った飛行機は一路ウィーンへ。ケガや事故もなく大会は終わった。しかも団体、個人で素晴らしい成績を出してくれたことに感謝し、団長としての役目を果たした安堵感でいっぱいであった。
・・・ 完 ・・・