逓信省航空局 航空機乗員養成所物語 (21)
– 乗員養成所卒業生の特攻 –

乗員養成所卒業生の特攻

1. 特別攻撃隊作戦の始動

 昭和19年夏、インド進攻のためのインパール作戦が悲劇に終わり、サイパン、テニアン、グァムの玉砕、政局は東条内閣総辞職に次ぐ小磯内閣の樹立と慌ただしく代わり、戦局は日に日に悪化の一途をたどっていた。ついに大本営は、死中に活を求めて、フィリピンを中心とする捷一号作戦を立案、10月からレイテ湾沖合で展開されたレイテ海戦に全力を傾注、米機動部隊と対峙した。世界最大の海戦に投入された彼我戦力は、艦船260隻、航空機2,000機といわれる。

 10月25日、ルソン島マバラカット基地から出撃した関行男海軍大尉(海兵70期)率いる6名の神風特別攻撃隊・敷島隊は、ゼロ戦に250キロ爆弾を抱いて出撃、レイテ湾に停泊している米機動部隊を目指した。目標を捕捉し、超低空飛行で接近した関隊長は、まっさきに敵空母セント・ローに突入、多大の戦果をあげた。

 海軍から遅れること2週間後の11月7日、陸軍特攻が始動した。第4航空軍隷下の「富嶽隊」、隊長は西尾常太郎少佐である。以来、陸海軍共に、なし崩し的に特攻が戦術の主流になっていっていき、多くの有為の若者が南瞑の空に消え、終戦までつづいた。

 特攻による戦死者と機体の損壊は、陸軍1,844名と1,094機、海軍が2,535名と2,367機である。しかし、これはあくまで概数でしかない。米軍の防禦体制は強固で、仏資料によると特攻による命中率は、平均18.6%(米資料では14.8%)と低く、敗戦へ近づくにしたがって、特攻隊員の技量と機体の性能劣化により、さらに低くなっている。

2. 乗員養成所卒業生の特攻

 将来の民間航空パイロットを夢見て、いずれは世界に雄飛する自らの姿を思い描いた養成所卒業生が、特攻へ赴いた事実を知る人は少ない。この時期の若者の「鬼畜米英を打つ」国防の意気は、天を突くものがある。あるいは憂国の発露で国の盾となり、親兄弟を守る信念に燃えて、特攻に殉じた者もいたであろう。しかし、事実は半強制的に上司の命令により、自暴自棄で出撃していった若者も少なくない。

 雪上浩信(仙台11期)は、熊本にある大刀洗陸軍飛行学校隈庄教育隊で教官をしていた。19年10月中旬、飛行演習終了後の夕方、隊長室前に将校下士官全員が集合を命じられた。寺崎隊長は戦局の厳しさを説明し、「体当たり戦闘部隊要員」の募集を口にして、志願票が配布された。

 志望はあくまで個人の自由意志であり、明朝までに隊長室へ提出するように言い渡された。志願票には「熱望」「希望」「不希望」を選択するようになっていたが、「熱望」以外に書きようがないことは、皆が承知していた。その夜の寝室には重い空気がただよった。

 11月に入って遂に第1陣、12月には第2陣の特攻編成命令が舞い込んだ。第2陣の中には同期の加藤俊二(古河航養)と百瀬恒男(々)の名があった。雪上は当時の模様をハッキリ覚えている。自分も近いうちに特攻に編成されることは分かっていたが、彼らを慰める言葉がない。加藤が特攻に指名された夜は、決して酔うことはなかったし、百瀬は兵舎の片隅で涙を流していた。二人とも、数ヵ月後に沖縄へ出撃して散華したのである。

 本科2期生は全員、古河高等航養所を卒業したが、卒業目前の20年6月、航空本部から参謀がやってきて、卒業後の希望を書かされている。彼は特攻として国に殉じる道を滔々と説き、全員が特攻を希望するまで何回も書きなおされた。生徒たちは半ばヤケクソになって「特攻熱望」としたという。

乗員養成所卒業生特攻出撃者概数
 操  縦  生本科その他
 2 5 7 8 91011121314 1  
陸軍系 132531081576232121
海軍系       111214  37
1325310826197632158

注:「その他」は、天虎飛行研究所および大日本青年航空団各1名

3. 乗員養成所操縦生特攻の先駆け

 石渡俊行軍曹(仙台9期)が、陸軍初の特攻・万朶(まんだ)隊に選ばれたときは、鉾田陸軍教導飛行師団で、99式双発軽爆撃機の第一次補充要員として、艦船攻撃の猛訓練中であった。この中には、彼と共に万朶隊員になった鵜沢邦夫軍曹(仙台9期)、奥原英孝伍長(仙台10期)、近藤行雄伍長(仙台10期)、佐々木知治伍長(仙台11期)が含まれていた。

 乗員養成所卒業生として特攻の先駆けとなり、19年11月15日に散華した石渡軍曹は、千葉県君津郡木更津出身で、まだ20歳であった。この日午前4時、万朶隊の99双軽4機と直掩する一式戦「隼」8機は、マニラ市北辺のカロヤン飛行場を、つぎつぎに離陸していった。目標は、マニラ東方200浬付近を遊弋している米空母郡である。99双軽4機の搭乗員は、鵜沢軍曹以外の前掲の4名であった。

 この日、曇天払暁の空中集合、しかし暗夜と雲にさえぎられて編隊を組むことができなかった。近藤機はマニラ近郊のニルソン飛行場で自爆、他の飛行機も帰還したが、石渡軍曹だけは、雲中飛行をしながら目標へ向かって航進したものと推定される。石渡にとっては2度目の出撃である。責任感の強い彼は、現世との絆を絶つべく、単機、決然として敵陣へ突進していったと思われる。

4. 本科生特攻第一号

 長浜清伍長(印旛本1期)は、鉾田陸軍教導飛行師団隷下の戦隊に所属しており、99式襲撃機の第2次補充要員として訓練中、第5次八紘隊・鉄心隊に選ばれた。そして12月5日昼過ぎに出撃、スルアン島付近の艦船に突っ込んだ。千葉県印旛郡本埜村出身の19歳であり、本科生の先駆けとなった。

 第26錬成飛行隊助教をしており、フィリピンへの空輸作戦を実施中、台湾の屏東で長浜伍長を見送った斉藤清伍長(印旛12期)は、当時の模様を次のように語っている。
 
 午前中、最終的な整備と機材の積み込みが終わり、午後は束の間の休養ということで、仲間3人で雑談中、地元の婦人会や女学生が、何組も隊列を組んでいるのが目に止まり、鉄心隊が出撃するところだった。その中に長浜らしい顔があった。

 「あれは本科の1期だ」「長浜って言わなかったかなぁ」「間違ってもいいじゃないか」「長浜」「長浜ッ」と、2、3回怒鳴った。身がぞくぞくっとするような緊張を覚えた。隊列の中にいる彼は、驚いたようにチラッとこちらを向いて、ニコッとした笑顔が今でも脳裏を離れないという。

 その直後、小事故で2時間ほど離陸がのびたが、はからずも3人は彼と話すことができた。すでに達観した心境なのか、彼は晴れやかな顔をしていた。彼はとても喜んで、いろいろな事を話してくれた。「・・・愛国心や軍人精神は現役軍人と変わらないことを示したかった」「そのために、真っ先に血書で特攻を志願した」等々、淡々と話してくれた。 

 2時間はまたたく間にすぎた。まだ童顔の残る顔に笑みさえ浮かべながら、戸惑うことなく立ち上がった彼は、われわれと固い握手をかわして愛機へ駆けより、轟音を残しながら消えていった。

 本科1期生の特攻出撃者は、表にあるように3人であり、他の2人の田川唯雄と塚田方也は一式戦「隼」を駆って、知覧から出撃していった。

逓信省航空局 航空機乗員養成所物語リンク

執筆

徳田 忠成

航空ジャーナリスト

参照 「航空機乗員養成所年表

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