モンゴルの歴史(6)  - The Land of Nomads –

1. チンギス・ハーンは世界最大の子孫持ち?

 ちょっと話は変わるが、2004年に行われたオックスフォード・アンゼスターズの調査により判明したDNA解析の結果、チンギス・ハーンは世界中の人物の中で一番自分の子孫を残した人物となっている。子孫を残す結果は自身が行っていたとされる、征服した国の女性たちに組織的にチンギスの子孫を作ることを強要していたとされ、今現在彼の遺伝子を引き継いでいる人物は世界中で1,600万人いるとされている。それはアジア系だけではなくヨーロッパ系にも及んでいることが判明した。この解析でマーカーとされた遺伝子は、突然変異頻度に基づく分子時計の推計計算により、チンギスの数世代前以内に突然変異によって生じた遺伝子である可能性が高いとされる。

 ただし、組織的に子作りを強要したという解釈にはヨーロッパ人のアジア系遊牧民への人種的、民族的偏見も見られる。ちょっと硬い話になるが、なぜこんなに多数の子孫ができたのか簡単に記しておきたい。

 新興遊牧国家の大規模拡大時には中央王権の遊牧集団に征服、あるいは同盟に基づく新規加入集団の融合が一気に起き、中央王権の管理する牧民民衆、民戦士及び家畜群の著しい膨張が起きてしまう。これをそのまま君主直属の宮廷組織が管理した場合、限られた草原への家畜の過剰な集中によって牧草が枯渇し、遊牧国家そのものの経済の崩壊、さらには政治的崩壊につながりかねない。 こうした場合、君主自身やその子息、兄弟といった王族男性が新規加入集団、特にその指導的家系に属する女性たちを妃、妻妾として娶り、その女性の主催する、モンゴル語でオルドと呼ばれる移動式遊牧宮廷を設立させ、この組織に牧民民衆の集団、及び家畜群を分散管理させるのが通例である。

 夫である君主、王族は、定期的にこのオルドを巡回、監督するが、同時に夫婦生活に基づく関係も生じ、正妻、あるいは王権中枢と関係の深い、高い地位を持つ多数の妻妾から膨大な数の子供が生まれることにもつながる。

 モンゴル帝国の膨張は歴史的遊牧国家の中でも特に激しかったため、こうした中央ユーラシア遊牧民の、妻妾に牧民・家畜群を分散管理させる伝統が、後世にチンギス・ハーン自身、及び3人の弟と3人の嫡出子を初めとする歴代ハーン達による膨大な数のチンギス・ハーン家子孫を残したとしても不思議ではない。

 また、チンギス・ハーンの長男ジョチの起こした分国、ジョチ・ウルスやその分裂後の継承政権の王族や貴族は、支配下に置いたルーシ諸侯国、中でも後にロシア帝国を形成するモスクワ大公国の大公一族や貴族と盛んに政略結婚を行い、後にロシア帝国の貴族層の一部を構成するまでに至っている。

 ロシア帝国の皇族、貴族はヨーロッパ王族、貴族とも盛んに政略結婚を結んでおり、この事実からも、チンギス・ハーン家の遺伝子が、現代の西欧諸国の王族、貴族から発見されることになんら不思議はない。

2. 第二代オゴデイ・ハーン

 チンギスの死後、全千人隊のうち8割を占める直属軍は末子相続の法により四男のトルイが相続し、トルイは監国として次期ハーンの選出を差配する役割を与えられた。このとき軍才にすぐれた長兄のジョチは既に亡く、財産の多寡でいえばトルイが圧倒的に有利であったが、次兄チャガタイら有力者たちは、兄弟のいずれとも仲がよく、そのためチンギスが生前に後継者とすることを望んでいた三兄オゴデイを推した。

1229年オコデイが第2代ハーンに即位。トルイは帝国の分裂を防ぐため中央軍指揮権を新ハーンに譲った。
1231年高麗王国への最初の侵入が行われた。完全に制覇することは出来なかったが、高麗は首都、開京(開城)から逃げて開京の対岸にある江華島に避難した。この後、モンゴル軍は1259年までに6回に渡って侵入し、高麗全土を荒らし回った。
1232年オゴデイは、トルイと協力して金との最終戦争に向かいほぼ壊滅させた。しかしトルイは金との遠征からの帰路に病没する。
1234年チャガタイの強い支持を受けたオゴデイはハーンとしての地位を固め、自ら主導するクリルタイを開いてモンゴル高原の中央部に首都カラコルムを建設させた。これ以降、オゴデイはカラコルム周辺の草原に留まり、国家組織を整えることに没頭して遠征は配下の軍隊に委ねた。配下の将軍の度重なる攻撃で、この年に金が滅亡した。
エルデニ・ゾー寺院の石塀

エルデニ・ゾー寺院の石塀

 首都カラコルムには金の職人を大動員して中国式宮殿を建てさせた。城壁は幅1m、高さ2mの土盛りで南北2,500m、東西1,500mを囲い、中に壮大な宮殿を建てたと記されているが本人は相変わらず草原に住んでいた。この宮殿跡には現在は殆ど何も残っていない。この地に、16世紀になってチンギス・ハーンの子孫バダイ・ハーンがエルデニ・ゾーというチベット大仏教寺院を建てた。社会主義時代にソ連の宗教弾圧によって相当部分が破壊されたものの現在も威容を誇っている。この寺院建設の基石に宮殿の石材が大量に使われて今も埋まっていると言われている。

 カラコルムを中心として行政機構が整備され、様々な民族出身の書記官僚(ビチクチ)たちによる文書行政が行われた。中国や中央アジアでは戸口調査が行われ、遊牧民には家畜100頭に対して1頭が、農耕民には10の収穫に対して1が税となる通称十分の一税制が帝国全土に適用された。帝国の主要幹線路には一定距離ごとにジャムチ(駅伝)が置かれ、ハーンの発給した許可状(パイザ)をもった使者や旅行者、商人は帝国内を自由に行き来することができるようにした。

1235年建設間もないカラコルムで開かれたクリルタイは、中国の南宋と、アジア北西のキプチャク草原およびその先に広がるヨーロッパに対する二大遠征軍の派遣を決定した。
1236年南宋に対する遠征は司令官とされたオゴデイの皇子クチュの急死により失敗したが、ジョチの次男バトゥを司令官とするヨーロッパ遠征軍はロシアのリャザン、マカウ (モスクワ) 、ウラディーミル、現在のレニングラード、キエフまでの全ての遊牧民世界を征服し、遠くポーランド、オーストリア、ハンガリー、ユーゴスラビア、ブルガリアまで席捲した。インド、イランにも遠征軍が派遣され、モンゴル帝国は膨張を続けた。
1241年オゴデイ死去。
1242年ヨーロッパ遠征軍に帰還命令が出されボルガ川まで後退した。これによりヨーロッパは救われた。当時、ヨーロッパ勢はローマ教皇と神聖ローマ皇帝フリードリヒ二世がイタリア覇権をめぐって争っていて無力で、全くモンゴル軍に歯が立たなかった。モンゴル軍の怒涛の進撃の前に風前の灯火となったヨーロッパ勢はモンゴルに宣教師を派遣してモンゴル人に人道を説きキリスト教に改宗させようとまでした。この宣教師により当時のモンゴルの様子がヨーロッパの記録に残った。なお、当時ヨーロッパ人はモンゴル人をタルタル人と呼んでおり、後にロシア語に入りタタル人と呼ばれた。現在のウズベク人もカザフ人もこのタタル (タタール)人の分れである。

 

3. ハーン継承抗争

1241年オゴデイが急死し、翌年にはチャガタイが病死すると、チンギス・ハーンの実子がいなくなった帝国には権力の空白が訪れた。次期ハーンの選出作業にはオゴデイの皇后ドレゲネが監国となってあたったが、ドレゲネがオゴデイの生前に指名した後継者を無視して自身の子であるグユクを擁立しようとしたため、ハーンの選出が遅れた。
1246年ようやく開催されたクリルタイはオゴデイの長子グユクを第3代ハーンに指名したが、グユクと仲の悪いバトゥ率いるジョチ一門がクリルタイをボイコットした。大ハーンのグユクと西方の有力者バトゥの対立により帝国は一時分裂の危機に陥る。
1248年グユクが即位後わずか2年で病死。グユクの死後、監国となった皇后オグルガイミシュは続いてオゴデイ家からハーンを選出しようとクリルタイを召集したが、バトゥは叔父トルイの未亡人ソルカクタニ・ベキと結んでトルイの長男モンケをッハーンに即位させようと目論み、クリルタイを欠席。オグルガイミシュにはオゴデイ家とチャガタイ家、ソルカクタニにはジョチ家とトルイ家がつき、両陣営は後継者をめぐって水面下の対立を続けた。
1251年トルイ家の陣営はついにオゴテイ家・チャガタイ家の説得を諦め、ジョチ家の協力を受けて自領内のチンギス・ハーンの幕営(オルド)においてモンケの第4代ハーン即位式を強行した。モンケは即位するやいなやオゴデイ家とチャガタイ家の有力者に大ハーン暗殺を計画した嫌疑をかけて弾圧し、オグルガイミシュ以下の有力者は処刑され、オゴデイ家とチャガタイ家のウルスは解体寸前の状態にされてしまった。

4.モンゴル帝国の再編

分裂を始めたモンゴル帝国  

分裂を始めたモンゴル帝国  

 モンケは帝国のうち定住民が居住する地帯をゴビ以南の漢地(中国)、ハンガイ山脈以西の中央アジア、アム川(アムダリア川)以西の西アジアの3大ブロックに分けて地方行政機関(行尚書省)を再編し、さらに3人の同母弟のうち次弟のフビライを漢地の軍団総督、三弟のフレグを西アジアの軍団総督に任命してそれぞれにその方面の征服を委ねた。

1253年フビライは雲南の大理国を征服し、フレグはイランのイスラム教徒諸勢力を次々に服属させる。
1258年フレグはイラクに入ってバクダードのアッバース朝を征服。モンケは南宋との決戦のため自ら長江上流域に侵入したが、苦戦を重ねた。
1259年モンケ・ハーンが四川省の陣中で疫病に罹って没した。この年に東方の高麗では武人政権、崔氏がクーデターで倒され、高麗太子、後の元宗はフビライに降伏。この元宗の息子がフビライの娘と婚姻し、以降代々の高麗王はモンゴル皇女と婚姻し元朝皇帝の側近として過ごすことになる。モンケの死後、首都カラコルムにあって留守を守っていたのは末弟のアリク・ブケであった。
1260年アリク・ブケはモンケの旧政府の支持を受け第5代ハーンに即位しようとしたが、南宋遠征で別働隊を率いて中国にいた次兄のフビライが中国および南モンコル、そして東モンゴルのチンギス・ハーン諸弟のウルスの支持を受けて、南モンゴルのドロン・ノールで自らハーンに即位した。続いてアリク・ブケも即位し、モンゴル帝国は南北に2人のハーンが並立する分裂状態となり、フビライとアリクは兄弟同士の戦闘状態に入る。この内紛の最中に、西アジア方面軍の総督であったフレグはアム川以西の行政機関を支配下におき、イランに留まって西アジアを支配する自立政権、イルハン朝を建設した。イルハン朝は南カフカスの草原地帯の支配をめぐってジョチ・ウルスを継承したバトゥの弟ベルケと対立し、両政権はハーンを全く無視して争い始めた。また、モンケの弾圧以来低迷していた中央アジアのオゴテイ・ウルスおよびチャガタイ・ウルスはハーン位争いの間に勢力を盛り返そうと蠢動した。
1264年アリクがフビライに投降。2年後に死去。フビライがアリク・ブケを降し単独の大ハーンとなったとき、大ハーンの影響力が直接及ぶのはモンゴル高原、天山ウイグル王国、チベットより東側のみになっていた。モンゴル帝国がバトゥのヨーロッパ遠征、フレグの西征のように帝国の全力をあげて遠征を遂行することはもはや不可能になり、帝国の膨張は東アジアを除いて停滞に向かう。チンギス・ハーンの死後わずか37年の孫の時代にモンゴル帝国は分裂し始めていた。
1271年フビライは彼の帝国の称号を大元と定めた。金の中都、燕京の地に大都市、大都の建設を始めた。これが現在の北京である。

フビライの大元が興隆期に向かい、やがて日本への侵攻「元寇」を迎えるが以下は次号としたい。

執筆

加戸 信之

元JICAシニア海外ボランティア ・ 元モンゴル航空局アドバイザー 

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