モンゴルの歴史(8) - The Land of Nomads –
歴史
帝国の遺産
元が北走してからも14世紀後半には東はモンゴル高原の北元から西はイラクのジャライル朝まで大小さまざまなモンゴル帝国の継承政権があり、その政治・社会制度の残滓はそれより遙か後の時代になってもユーラシアの広い地域で見られた。モンゴルを倒して漢民族王朝を復興したとされる明においてもその国制はおおむね元制の踏襲であり、例えば軍制の衛所制が元の千戸所・万戸府制の継続である。
同じ頃、中央アジアから西アジアに至る大帝国を築き上げたティムールは、先祖がチンギス・ハーンに仕えた部将に遡るバルラス部の貴族出身であり、その軍隊は全く西チャガタイ・ハーン国のものを継承していた。
そして、チンギス・ハーンの名とその血統はその後も長らく神聖な存在でありつづける。東ヨーロッパのクリミヤ半島では1783年まで、中央アジアのホラムズでは1804年まで、インド亜大陸では1857年まで、王家がチンギス・ハーンの血を引くことを誇りとするモンゴル帝国の継承政権としてクリミヤ・ハーン国、ヒヴァ・ハーン国のシャイバーン朝、ムガル帝国が存在した。しかし諸ハーン国では、モンゴル人の数は圧倒的に少数だった。したがって広い地域を統治するためには土着勢力と協力しなければうまくいかないので婚姻関係も結ぶし、その土地の宗教、具体的にはイスラム教を信じた方がうまくいく。こうして何世代か経つうちに、モンゴルの王族も土着勢力のなかに吸収され、なし崩し的にモンゴル帝国は衰退していった。
かつてのジョチ・ウルス東部に広がった遊牧民カザフの間ではソビエト連邦が誕生する20世紀初頭までチンギス・ハーンの末裔が指導者層として社会の各方面で活躍した。早くにロシアに征服されたジョチ・ウルスの西部でも、多くのモンゴル貴族がロシア正教に改宗してロシア貴族に叙せられるなど長らくチンギス・ハーン一族の権威が生き続け、16世紀にはイワン4世がジョチ家の末裔サイン・ブラトに一時的に譲位してモスクワのツァーリにもその権威を身につけようとしたこともあった。
北元では、15世紀の終わりにフビライの末裔ダヤン・ハーンが即位し、ハーンの名のもとにモンゴルの諸部族が再統一される。17世紀には満州人の大清がダヤン・ハーンの末裔チャハル部から元の玉璽を譲り受け、大元の権威を継承して満州・モンゴル・中国の君主となる手続きを取り、新たにモンゴルの最高支配者となるが、その後も清のもと、モンゴルではダヤン・ハーンの末裔の王族たちが諸部族の領主として君臨しつづけた。彼らはカザフのチンギス・ハーンの末裔たちと同様に社会の指導者層となり、清の崩壊後にはモンゴル国や内モンゴルの独立運動にも関わることになる。
1. 世界史はモンゴル帝国から始まった
モンゴル帝国の再編とともに、ユーラシア大陸全域を覆う平和の時代が訪れ、陸路と海路には様々な人々が自由に行き交う時代が生まれた。モンゴルは関税を撤廃して商業を振興したので国際交易が隆盛し、モンゴルに征服されなかった日本や東南アジア、インド、エジプト、ヨーロッパまでもが海路を通じて交易のネットワークに取り込まれた。この繁栄の時代をローマ帝国のもたらしたパスク・ロマーナ(ローマの平和)になぞらえてパスク・モンゴリカ(あるいはパスク・タタリカ)と呼ぶ。
モンゴル帝国は、アメリカ大陸が知られていなかった当時、世界の半分を支配したといわれ、歴史上、領土面でこれにほぼ匹敵するものは大英帝国しか存在しない。しかし、大英帝国といえども、本国は小さな島にすぎず、大部分は遠く離れたアフリカ、中東、インド、オーストラリア、北アメリカの植民地であり、陸続きで、かつ一つの民族が直接支配した帝国としては歴史上モンゴルに比肩できるものはない。
世界史はモンゴルから始まったと唱える歴史学者がおり、その理由は以下の通りである。
1. 東の中国と西の地中海ヨーロッパを結ぶ「草原の道」を支配し、ユーラシア大陸住民全てを一つに結びつけた。
2. ユーラシアの殆どを統一したため、それまで存在したあらゆる政権がご破算になり、改めてモンゴル帝国から新しい国々が誕生した。中国、ロシアを初め、現在のアジアと東ヨーロッパの国々が生まれた。
3. 北中国で誕生していた資本主義経済が地中海世界に伝わり、更に西ヨーロッパに広がって現代の幕を開けた。(資本主義経済はヨーロッパで生まれたものではない!)
4. 「シルク・ロード」を始めとしたユーラシア大陸の陸上貿易を独占してしまったため、外側に残されたヨーロッパや日本などが活動を求めて海上貿易に進出し、歴史の主役が大陸帝国から海洋帝国へと移っていった。
2. 軍事制度
遠征の実施が決定されると、千人隊単位で一定の兵数の供出が割り当てられ、各兵士は自弁で馬と武具、食料から軍中の日用道具までの一切を用意した。軍団は厳格な上下関係に基づき、兵士は所属する十人隊の長に、十人隊長は所属する百人隊の長に、百人隊長は所属する千人隊の長に絶対服従を求められ、千人隊長は自身を支配するハーンや王族、万人隊長の支持に従う義務を負った。軍規違反に対しては過酷な刑罰が科せられ、革袋に詰めて馬で生きたまま平らになるまで踏みつぶしたり生きたまま釜ゆでにしたりすることもあったという。ただし、モンゴルの慣習では、こうした台地に血を流さない処刑方法は、貴人に死を賜るときの礼儀でもあった。
このように、モンゴル軍の主力となる軍隊は本来が遊牧民であり遊牧生活を基本としていたので、放牧に適さない南方の多湿地帯や西アジアの砂漠、日本への元寇に見られるように水上の戦闘では機動や兵站に難があってそれが膨張の限界ともなった。これを補うため中国などでは支配民族から徴募した兵士の割合が増す。
支配民族の軍は、東アジアの元の場合では、世襲の農地と免税特権を与えられた軍戸に所属する者から徴募された。その軍制は遊牧民による千戸制の仕組みを定住民にあてはめたものであり、兵士の軍役は軍戸数戸ごとに1人が割り当てられ、兵士を出さなかった戸が奥魯(アウルク、後方隊)となってその武器や食料をまかなった。
全軍は、右翼・中軍・左翼の三軍団に分けられ、中軍の中にもそれぞれの右翼と左翼があった。これはモンゴルにおける平常の遊牧形態を基本としており、中央のハーンが南を向いた状態で西部にある遊牧集団が右翼、東部にある遊牧集団が左翼となる。また、各々の軍団は先鋒隊、中軍、後方輜重隊の三部隊に分けられた。
先鋒隊は機動力に優れた軽装の騎兵中心で編成され、前線の哨戒や遭遇した敵軍の粉砕を目的とする。中軍は先鋒隊が戦力を無力化した後に戦闘地域に入り、拠点の制圧や残存勢力の掃討、そして戦利品の略奪を行う。全軍の最後には、後方隊が家畜の放牧を行いながらゆっくりと後に続き、前線を後方から支えた。後方隊は兵士たちの家族など非戦闘員を擁し、征服が進むと制圧の完了した地域の後方拠点に待機してモンゴル本土にいたときとほとんど変わらない遊牧生活を送る。前線の部隊は一定の軍事活動が済むといったん後方隊の待つ後方に戻り、補給を受けることができた。部隊の間には騎馬の伝令が行き交い、王族・貴族であっても伝令に会えば道を譲るよう定められた。
個々の兵士は全員が騎馬兵であり、速力が高く射程の長い複合弓を主武器とした。遊牧民は幼少の頃から馬上で弓を射ることに慣れ、強力な弓騎兵となった。兵士は遠征にあたって1人あたり7~8頭の馬を連れ、頻繁に乗り換えることで驚異的な行軍速度を誇り、軽装騎兵であれば1日70kmを走破することができた。
3. 戦闘
戦闘ではスキタイ以来の遊牧民の伝統と同じく、主力の軽装騎兵によって敵を遠巻きにし、弓で攻撃して白兵戦を避けつつ敵を損耗させた。また、離れた敵を引き寄せて陣形を崩させるために偽装退却を行い、敵が追撃したところを振り向きざまに射るといった戦法もよくとられた。弓の攻撃で敵軍が混乱するとサービル、メイス、槍を手にした重装騎兵を先頭に突撃し敵軍を潰走させた。
追撃の際、兵士が戦利品の略奪に走ると逆襲を受ける危険があったことから、チンギス・ハーンは、戦利品は追撃の後に中軍の制圧部隊が回収し、各千人隊が拠出した兵士の数に応じて公平に分配するよう定めた。
攻城戦は、モンゴルにはほとんど都市が存在しないため得意ではなかったが、撤退を装って守備軍を都市外に引きずりだすなど計略をもってあたった。金に対する遠征では、漢人やイスラムの技術者を集め、梯子や楯、土嚢などの攻城兵器が導入され、中央アジア遠征では中国人を主体とする工兵部隊を編成して水攻め、対塁建築といった攻城技術を取り入れた。中央アジア遠征ではサマルカンドで火炎兵器の投擲機、カタパルト式投石機などの最新鋭の城攻兵器の技術を入手するが、これらはホラムズやホラーサーンの諸都市に対する攻撃で早くも使われた。
攻城にあたってはあらかじめ降伏勧告を発し、抵抗した都市は攻略された後に略奪され、住民は虐殺された。その攻撃は熾烈を極めチンギス・ハーンの中央アジア遠征のとき、抵抗したバーミヤン、バルフなどの古代都市はほとんど壊滅して歴史上から姿を消す。
4. 情報戦略
モンゴル軍の遠征における組織立った軍事行動を支えるためには、敵情の綿密な分析に基づく綿密な作戦計画の策定が必要であり、モンゴルは遠征に先立ってあらかじめ情報を収集した。実戦においても先鋒隊がさらに前方に斥候や哨戒部隊を進めて敵襲に備えるなど、きわめて情報収集に力が入れられる。
また、中央アジア遠征ではあらかじめモンゴルに帰服していた中央アジア出身のイスラム商人、ヨーロッパ遠征では母国を追われて東方に亡命したイングランド貴族が斥候に加わり、情報提供や案内役を務めていたことが分かっている。
チンギス・ハーンの中央アジア遠征の場合、連戦連勝で進んだモンゴル軍はアム川を越えてホラーサーン、アフガニスタンに入るとしばしば敗戦も喫し、無思慮な破壊や虐殺が目立つようになるが、これはホラムズ・シャー朝があまりにも急速に崩壊したために事前の作戦計画が立てられないまま戦線を拡大してしまったためである。
中央アジアの諸都市ではそれぞれで数十万人の住民が虐殺されたとされ、バトゥのヨーロッパ遠征で滅ぼされたルーシの中心都市キエフは陥落後10年経っても人間の姿が見られなかったという。また、日本に対する遠征(元寇)の際は、捕虜の手に穴を空けて連行したと伝えられており、モンゴル軍の残虐さを物語る逸話はユーラシアの各地に数多く残っている。しかし、中央アジアではこの時代のオアシス都市としてはありえない数十万人の住民が殺害されたと言われているように、このような言い伝えには相当な誇張もあると思われる。
実は、恐怖のモンゴル軍のイメージは、戦わずして敵を降伏させるために使われたモンゴルの情報戦術のひとつだったのではないかとも言われている。
5. 経済
モンゴル帝国は、先行する遊牧国家と同様に、商業ルートを抑えて国際商業を管理し、経済を活性化させて支配者に利益をあげることを目指す重商主義的な政策をとった。内陸の国や港湾国家は、一般に通過する財貨に関税をかけて国際交易の利益を吸い上げようとするが、モンゴル帝国は商品の最終売却地でのみ商品価格の三十分の一の売却税をかけるように税制を改めた。
遊牧民は生活において交易活動が欠かせないため、モンゴル高原には古くからウイグル人やイスラムの商人が入り込んでいたが、モンゴル帝国の支配者層は彼らを統治下に入れるとオルトクと呼ばれる共同事業に出資して利益を得た。占領地の税務行政が銀の取り立てに特化したのも、国際通貨である銀を獲得して国際商業への投資に振り向けるためである。モンゴル帝国の征服がもたらしたジャムチの整備とユーラシア大陸全域を覆う平和も国際商業の振興に役立った。
モンゴル帝国の拡大とともにユーラシアを横断する使節、商人、旅行者の数も増加し、プラノ・カルピニ、モンテ・コルヴィノのジョヴァンニ、マルコ・ポーロ、イブン=パットゥータなどの著名な旅行家たちがあらわれる。
6. 文化
モンゴル部族の伝来の宗教は素朴な天に対する信仰を基礎としたシャーマニズムであり、かつ仏教やネストリウス派のキリスト教、イスラム教を信仰する人々とも古くから接してきたため、神を信じる全ての宗教を原則として平等に扱った。モンゴル帝国に服属した宗教教団は保護が与えられて宗教上の自治を享受した。
モンゴルはチンギス・ハーンのジャサク(ヤサ)と呼ばれる遊牧民の慣習法とチンギス・ハーンの勅旨・訓言を律法として固く守り、少数支配者であってもモンゴルの社会制度を維持した。14世紀に入ると、モンゴル人たちは次第に東方ではチベット仏教、西方ではイスラム教を受け入れていくが、チンギス・ハーンのジャサクに基づく社会制度は極力維持され、宗教的な寛容は保たれた。
その一方で、実用に役立つ異文化の摂取については排他性が薄く、学術や技術の東西交流を促進させた。この時代に西アジアには中国から絵画の技法が伝わって細密画(ミニアチュール)が発達する。中国には西アジアからイスラム天文学など世界最先端の科学が伝えられ、投石機などの優れた軍事技術がもたらされた。逆に中国では、モンゴルのケシク制度に適合しない科挙が廃れるなど、儒教があまり重視されなかったが、儒学の中でも実用性を重んじる朱子学が地位を高め、14世紀に科挙が部分復活したとき正式の解釈として採用されるようになる。