モンゴルの歴史(10) - The Land of Nomads –
歴史
1. 清朝下のモンゴル
清朝を建国した満州族はモンゴルを支配下に置いた後もこれを同盟者として扱い、その忠誠心を得るため様々な保護を与えた。まず、漠南を49旗に分け、旗ごとに牧地を定めモンゴル諸部族を旗長とする世襲制とした。旗長ではないが、チンギス家に連なる王公を間散(スラ)と称して特別な待遇を与えた。
旗長の下に佐領(スムン)を置き、1スムンは150名の兵士を出す家族群で構成させた。モンゴル人は自分の所属するスムンは知ってはいたが旧来通りの遊牧生活を送っていた。このスムンという名称は現在も県(アイマク)の下の行政単位として現代モンゴルに生き残っている。
ジューンガル帝国が滅亡し、全モンゴル人が清朝に従属した8年後の1779年に乾降帝は「表伝」と略称されるモンゴル史の編纂を命じ満語、漢語、モンゴル語で記された120巻が完成した。内容はモンゴル、チベット、イスラム教徒(回部)の王公列伝で各部の住地、王公の祖先を叙述した。モンゴル人の場合はチンギス・ハーンの第何代の子孫か、何時から清朝と関係を持ち、どの様な爵位を得たかを記した。
その後、1812年、1836年、1849年に続纂本が編纂されモンゴル史研究の基本文献となっている。
まだ内蒙古、外蒙古の区別はなかったが清朝治下のモンゴル人は満州人扱いの「八旗蒙古」と清朝皇帝直属の「内属蒙古」に区別されていた。「八旗蒙古」はモンゴル系満州人で、「内属蒙古」は北元時代のモンゴルの中心となった部族で再びモンゴルを統一されることを恐れた清が旗長は置かず清朝皇帝直属としたものである。
この他に1839年と1845年に「表伝」を基に書かれた「皇朝藩部要略」という歴史書が1884年に刊行されて始めて漠南の「内蒙古」と漠北の「外蒙古」という区別が記された。この「外蒙古」が現在のモンゴル国である。清朝はモンゴル等の各藩部は種族自治を原則とし、それぞれ異なった法律を制定し、中国人には「大清律例」、満州人に「八旗則例」、モンゴル人に「蒙古例」、チベット人に「西蔵事例」、イスラム教徒には「回疆(かいきょう)則例」を適用した。
清朝は漢人の移動を警戒して満州やモンゴル遊牧地への漢人農民の入植を厳禁し、漢人商人も一年を越しての滞在不可、固定家屋の禁止、モンゴル人との婚姻も禁じた。
1850~64年 | 中国華南、華中で太平天国の乱が起き、更に1862年、陵西省で漢人とイスラム教徒の衝突が起こりイスラム教徒の反乱は甘粛省と新疆に及んだ。 |
1865年 | ウズベキスタンからヤークーブ・ベグという英雄が新疆にやって来てカシュガルにイスラム王国を建てた。 漢人将軍が清朝存続の危機を感じて私兵を率いて平定に向かった。 |
1877年 | 将軍は平定に着手してから10年以上かけてようやくカシュガルを落とし反乱を鎮圧した。 |
1884年 | 清朝は新疆省という中国行政機関を設置し漢人長官を任命した。これが漢人による清の辺境統治の最初となった。それまで清朝は満州人とモンゴル人連合で漢人を統治しチベットとイスラム教徒を保護する建前だったがその後、満州人は連合の相手を漢人に切り替え「満漢一家」と言い出すようになる。 |
2. 日清戦争
1884年 | ベトナム保護権をめぐり清仏戦争が起こり、フランスが台湾を封鎖。 |
1885年 | あわてた清朝は台湾省を設置。それまで台湾は新疆同様に辺境扱いだった。 |
1894~95年 | 日清戦争が勃発。日清戦争は李氏朝鮮をめぐる日本と清朝中国の戦争で日本の開国後最初の外国との戦争であった。 |
日本は明治政府成立直後から朝鮮半島に対し経済進出を含む深い関心を抱いており、国交交渉を始めていた。朝鮮は鎖国状態で高宗国王の父である大院君が政治の実権を握っており、欧米諸国の侵入に激しく反対し、開国した日本も洋賊であるとして国交樹立に反対し交渉は進んでいなかった。
1873年 | 明治政府は朝鮮への派兵、いわゆる西郷隆盛が主張した征韓論を閣議決定した。しかし欧米視察から帰国した岩倉具視、大久保利通らが強固に反対し取り消された。大久保等も実際は朝鮮半島での武力行使方針自体には反対ではなかったが欧米の実態を見てからは、とても外国侵略などをしている暇はなく国内整備と国力充実が先だと反対した訳である。 |
1875年 | しかしわずか2年後、大久保等は朝鮮の江華島付近において朝鮮との武力衝突、いわゆる江華島事件を起こして朝鮮に圧力をかける。 |
1876年 | 不平等条約である日朝修好条規(江華条約)を締結し朝鮮を開国させた。 当時朝鮮は清の冊封国であったが、この条約では冊封を近代的な意味での属国、保護国とは見なさなかったため朝鮮は独立国として扱われた。朝鮮では欧米化を進めようとする親日派と斬新的改革路線の親清派との対立が激しくなり、それにつれ日本と清の対立も表面化してきた。 |
1882年 | 大院君らの扇動を受けて漢城(のちのソウル)で大規模な反乱、壬午事変が起こり政権を担当していた閔妃一族の政府高官や日本人軍事顧問、日本公使館員らが殺害された。 これを受け、清と日本双方の軍隊が漢城に駐留することとなったが、清の駐留軍勢力が強く、それを背景に親清派(守旧派)が勢力を拡大していった。 |
1884年 | 巻き返しを図った親日派(開化派)は日本の協力を背景にクーデター、甲甲事変を起こし一時政権を握った。しかし清軍が鎮圧に乗り出し日本軍は退却してクーデターは失敗に終わった。 |
1885年 | 日本と清は天津条約を締結し、両軍は撤退し今後朝鮮に出兵する際は互いに事前通告することが定められた。 |
1894年 | 朝鮮で民生改善と日欧の侵入阻止を求める農民反乱、甲午農民戦争が起こり、朝鮮政府は清に派兵を要請した。清は天津条約に則り日本に派兵を通知した。日本は清の勢力拡大を恐れていたため朝鮮政府からの要請がないにもかかわらず公使館と在留邦人の保護を口実に1万人の派兵を決定した。事態悪化にあわてた朝鮮政府は農民の要求をほぼ全面的に受け入れ停戦し、日清両軍の撤兵を要請したがどちらも受け入れなかった。 それどころか日本は朝鮮の内政改革を求め、これが朝鮮政府と清に拒否されると王宮を占拠して親日政府を組織させた。清がこれに抗議して対立が激化した。 |
日本は開戦に備えイギリスの支持を得ようと条約改正交渉を行い調印に成功した。この直後から日本政府は開戦に向けての作戦計画を開始し、8月1日の豊島沖海戦で日清戦争が始まった。
なお、明治天皇は日本の強引な開戦工作に対して「これは朕の戦争に非ず。大臣の戦争なり」と怒りを露わにしたが開戦は阻止できなかった。
日本軍は豊島沖海戦、政歓と平壌での陸戦、黄海海戦と連勝し朝鮮半島をほぼ制圧した。その後、朝鮮と清の国境、鴨緑江を渡り遼東半島にも上陸を開始し旅順、大連を占領。
1895年、清の北洋艦隊基地、威海衛を攻略し遼東半島を制圧。台湾占領に向かった。
ここに及んでイギリスが講和斡旋に動き、清も1月に講和使節を日本に派遣したが、日本は遼東半島の完全占領を目指していたため講和条件を受け入れなかった。
しかしアメリカの仲介によって下関で講和会議が開かれて停戦に合意し、日清講和条約が調印された。
清への条件は以下の3点であった。
1. 朝鮮の独立を認める。
2. 遼東半島、台湾、澎湖島を日本に譲渡する。
3. 賠償金2億両を支払う。
当時、ロシアは満州への進出を狙っていたため遼東半島が日本領になることに激しく反発。ドイツ、フランスと共に遼東半島を清に返還することを要求。日本にはこのいわゆる列強三ヶ国の三国干渉に対抗する力はなかったためこれを受け入れた。以降、日本はロシアを仮想敵国として、清から得た賠償金で八幡製鉄所を建てるなどの国力充実を図った。
戦後、欧米列強は清の弱体化を見て中国分割に乗り出した。ロシアは旅順と大連、ドイツは膠州湾、フランスは広州湾、イギリスは九竜半島と威海衛を租借した。
台湾では清朝の役人が日本統治を妨害するために台湾人を扇動して、台湾民主国を建国し日本と乙未戦争を起こしたが日本の圧倒的兵力に敗北した。清の役人は資金を持ち逃げし、日本は台湾を併合し植民地支配を開始した。
イギリスとのアヘン戦争とは比較にならない衝撃を受けた清は、近代文明の必要性を感じ、多くの学生を日本に留学させ日本を通じて欧米の近代文明を取り入れようとした。
3. 日露戦争
三国干渉で日本が清朝に遼東半島を返還させられた翌年、ロシアは日本に支払う賠償金の借款の口利きをした代償として清朝から満州北部を横断する東清鉄道の敷設権を得た。ロシアは1860年の北京条約で沿海州を得ており、1871年にはウラジオストックに海軍基地を築いていた。当時バイカル湖まで達していたシベリア鉄道を黒竜江の北を迂回してハバロフスク経由でウラジアストックに継げる計画にしてあったが、清朝の弱みにつけ込んでバイカル湖から満州を横断して一直線にウラジオストックに繋ごうとしたのである。
1898年 | 更に、この東清鉄道の中間点ハルビンから遼東半島の大連、旅順に至る東清鉄道南部支線と遼東半島の租借権も手に入れた。 |
1900年 | 山東省の宗教秘密結社、義和団が外国人排斥運動を起こして北京に至った時、ロシアはこれを好機として18万の軍を満州に侵入南下させ瀋陽まで占領した。日本を含む8ヶ国連合も同時に北京を占領したが清と講和を結んで撤収したが、ロシアはそのまま満州に居座った。 ロシアを牽制するため義和団制圧の主力だった日本と英国は日英同盟を結んだ。アメリカも圧力を加えたためロシアは段階的撤兵を約し第一次撤兵は行った。 |
1903年 | しかしロシアは東清鉄道全線を建設終了し、撤兵どころか旅順に極東総督府を設置し再び瀋陽を占領した。更に朝鮮半島でも日本勢力駆逐を図り、現在の中国と北朝鮮の国境の鴨緑江を越えて黄海の要所、龍岩浦に基地を築いた。 |
1904年 | 日本との交渉に誠意を示さないロシアに対し日本は英米の支持を頼みに宣戦布告。 |
1905年 | 苦戦の末に乃木大将がようやく旅順を占領し、海軍はバルチック艦隊を破ったが戦争遂行能力が限界に達していた。幸運にもロシア革命に繫がる「血の日曜日」事件が起こり、アメリカの仲介でようやく日露講和条約が結ばれ戦争は終結した。 この勝利で国民が期待した賠償金は得られなかったものの、朝鮮に対する優越的地位、旅順と大連の租借権、東清鉄道満州支線の経営権、南樺太、沿海州の漁業権を獲得した。満州は清の領土で祖父発祥の地でありながら、清は局外中立を宣言したため、この後満州は北半分がロシア、南半分が日本の勢力圏となった。 |
1906年 | 日本は大連に関東都督府を設置、この守備隊が1919年に成立した関東軍の前身である。半官半民の南満州鉄道(満鉄)も誕生した。 |
日露戦争の詳細は省いた。以下は次号。