モンゴルの歴史(11)  - The Land of Nomads –

1.日清戦争と日露戦争のモンゴルへの影響

日清戦争後、清朝は日本をモデルとした国民国家化を目指し、生き残りをかけた行政改革を行っていた。

1905年には科挙の試験を廃止し、対蒙政策も改革するため清朝特使が内モンゴルの有力王公を廻って意見聴取し行政改革、新制度導入、新式軍隊の配備、学校や保健施設の設置などの施策を予定し仏教僧侶の優遇政策の廃止を図った。ほとんどの王公は清朝と一体化していたためこれに支持を表明した。

 これに反し、外モンゴルでは反発が強かった。
1902年頃から清朝は蒙地保護政策を一変して漢人の入植を奨励したため、特に内モンゴルの満州方面では牧地の減少が甚だしく清朝の実権が漢人官僚に握られたことに不安を抱き、反清、反漢感情が高まっていた。これらの地ではモンゴル人は放牧地を農地で囲まれ、自らモンゴル人が最もきらう農耕生活を送らざるを得なくなっていた。

1911年、ラマ僧と漢人商人の争いが起こり、モンゴル指導層は秘密会議を開き、王公とラマ僧と人民の代表がロシアに赴き援助を要請した。しかしロシアは独立が不可能な事を説得すると共に、清朝にはモンゴルに対する新政策の停止を要求した。ロシアは国際情勢から、清朝宗主権下での外モンゴルの高度自治しか支援出来ないとモンゴルの要請を断ったのである。

 ロシアがモンゴルの要請を断った背景には、日露戦争後に日本と結んだ二つの密約があった。密約とは1907年の満州鉄道接続の第一次日露協約、1910年の満州を両国の特別権益に分割する第二次秘密協定であり、更に、1912年に結ばれる、北京を南北に走る線の東を日本、西をロシアの権益とする第三次秘密協定の交渉中であった。

 日本は外モンゴルをロシアの勢力範囲として認める代わりに東部内モンゴル、満州を自分の勢力範囲としたものであった。

 ロシアから帰った代表団はチべットで生まれチンギス・ハーンの子孫でラマ僧であったジェブツンダンバ八世を元首にして独立を宣言した。この後、八世はボグド・ハーンと呼ばれるモンゴル最後のハーンとなった。

 外モンゴル以外のモンゴル人にも大きな共鳴を呼び起こし、内モンゴル49旗中、35旗がボグド政府下に合流した。この為、内モンゴルで張作霖や袁世凱の中国辺境軍閥との戦闘が始まりモンゴル軍は劣勢となり日本の川島浪速なる者が武器弾薬を援助した。これが第一次満蒙独立運動となる。

1912年、ロシアは露蒙協定でモンゴルを脅し独立宣言を自治宣言に格下げさせ、モンゴルでの経済権益を認めさせた後、中国と交渉を開始した。後でのべるが清では宣統帝がこの年に退位させられ中華民国が成立していた。

1913年、ロシアに失望したモンゴルは、清朝から独立宣言したチべットと相互独立承認を行い、日本に援助を求め日本天皇に親書を送ったが日露が共犯者であったため日本はこれを無視した。

 同年、露中宣言が発表され、ロシアは外モンゴルの中国宗主権を認め、中国は外モンゴルの自治を認めた上で両国は軍隊を派遣せず殖民を停止するというものだった。

1914~1915年、この内容をモンゴルに押し付けるため、三者会議が40回も行われ、モンゴルは抵抗空しく、ついに中国の宗主権を認めさせられた。自治は外モンゴルだけで内モンゴルは中国領となってしまった。

 一部の勢力バブージャブが内モンゴルに留まり、全モンゴルの統一を目指したがボグド政府は討伐軍を送らざるを得なくなり、バブージャブは日本に援助を求め、川島浪速の働きで大陸浪人や予備将校、満州駐留軍の一部も加わって第二次満蒙独立運動が始まった。

 日本政府も当初は中国皇帝をねらっていた袁世凱を牽制するため了承していたが、1916年の袁世凱の死と共に工作中止を命じた。バブージャブは張作霖と戦いながら北に引き上げる途中で戦死した。

2. 辛亥革命

1911年、生き残りをかけていた清朝は窮乏国家財政建て直しのため、鉄道の国有化を行おうとした。これに対し外国資本に国益を売り飛ばそうとする行為だとする反対運動が四川省で起こり、それに乗った形で孫文の中国革命同盟が湖北省で反乱を起こす。これに14の省が続いて清朝からの独立を宣言。

1912年、各省代表が南京に集まり、孫文を臨時大統領にした中華民国政府を立ち上げた。

 清朝は袁世凱にこの討伐を命じたが、袁世凱は逆に民国政府と協議して宣統帝を退位させ、自分が孫文に取って代わって大統領に就任した。なお、宣統帝は退位の優遇条件として、その後も紫禁城に居住し大清皇帝の尊称を用いた。

 中華民国は基本法として臨時約法を公布したが、袁世凱は孫文らとの約束を反故にし、革命の旗手宋教仁を暗殺、更に臨時約法を廃止し一時は中華帝国皇帝になるなど反民主的、専制的となって革命の夢は破れた。革命側は抵抗を続けたが実らず、中国全土に軍閥が割拠するようになった。中華民国は内モンコ゛ル各地の王公の特権を保証していたがこれら漢人軍閥が勝手に開拓を進めたため牧地は減少し続け遊牧民の生活は疲弊の一途をたどった。

 袁世凱は革命派を弾劾しつつ専制政治を行っていたが、国内外の反発を受けて退位し、1916年に失意の内に没した。

 中国の統一を目指す孫文は国民党を結成し、ロシアとの関係を深めたり中国共産党と協力するなど統一を目指したが1925年に北京で亡くなり、平和的統一は出来なかった。

 孫文亡き後の国民党は国民政府を組織。ここで急速に台頭してきた蒋介石が、1928年に張作霖の息子で後継者である張学良が満州事変を機に国民党に合流した後、やっと地方軍閥を抑えて全国統一を成し遂げた。

 しかし、台頭してくる毛沢東率いる中国共産党との1948年の国共内戦で国民党は破れ、1949年に台湾に逃れた。

執筆

加戸 信之 

元JICAシニア海外ボランティア ・ 元モンゴル航空局アドバイザー 

LATEST

CATEGORY