飛行艇パイロットの回想
-横浜から南太平洋へ- (2) 終戦時の大日本航空海洋部横浜支所
歴史
1. 大日本航空海洋部
大日本航空海洋部横浜支所は、開設当初、現在の神奈川県磯子区富岡にあった横浜海軍航空隊に間借りする形で、同居していた。ここで海軍の指揮下にはいり、南洋諸島への運航に従事していたが、海軍軍人による指導が性に合わない民間航空の乗員たちにとっては、毎日が針の筵の上にいる思いだった。
洋上飛行に従事すべく、飛行技術抜群の実力派パイロットが選ばれ、昭和16年7月には、横浜~サイパン~パラオ、横浜~バンコック線、または赤道を超えて、はるばるスペイン領チモール、までの国際線開設計画を着々と進めるなど、開放的な雰囲気の大日本航空乗員にとっては、この海軍主導が、何かと禍の元になっていた。したがって海軍委託五期の安倍藤平や斎藤洋五、同じく海軍委託十三期生の佐竹仁、福田武雄といった顔ぶれは、なにかといったら海軍精神をふりまわす上司の軍人に反抗していたが、その結果、海洋部を去り、さっさと陸上機に戻っていってしまった。当時としては、大変な勇気が必要だっただろう。
昭和16年4月には、磯子区根岸町八幡橋埋立地に、東洋一といわれた大格納庫が建設され、東京湾が一望できるモダンなビルが建てられた。待ちに待った海洋部横浜支所のオフィスもできあがり、ビル内の事務所、売店や食堂には、モダンな装いの美しい女性事務員やウェイトレスがかいがいしく立ち働くようになった。それに群がるように、大勢のハイクラスな老若男女が出入りする、まさに国際色豊かな雰囲気に生まれかわった。
ここに勤務していた私たち若いパイロットは、胸に翼型の金モールをつけた紺色のダブルの背広に半長靴という制服に身をつつみ、颯爽として南方の空に飛びたった思い出多い海洋部横浜支所だった。
敗戦の色濃くなった昭和20年5月、東京大空襲のため有楽町にあった大日本航空本社が焼失してしまった。しかし営業は続けなければならないという訳で、第二運営部門(海軍の委託ないし指令を受け入れる窓口)が、磯子区随一の料亭『偕楽園』2階の大広間へ引っ越してきた。偕楽園には大日本航空の職員達も出入りしていた馴染みの高級料亭で大広間の1階は大宴会場と浴場になっていた。
昭和20年8月13日の深夜、早くもポツダム宣言を傍受したという仲間の通信士の話に、その真偽を疑いながら、来るべきものが来たという複雑な思いと、「これでオレの短いパイロット人生も終わってしまったか」と、無念さがこみあげてきた。
8月15日正午に例の玉音放送を自宅で聞き、押っ取り刀で走るようにして飛行場の乗員控室へ急いだ。三々五々と集まってきた職員は、生気のない表情で、肩を寄せ合って、なにやらボソボソと話し合っている様子が目にはいった。つぎつぎと運航課へ集まってきた不安顔の乗員は、それでもボチボチと、これからの成すべきことを話しあっていた。
とりあえず運航関係のなかで、極秘に関するものを集めて処理することになった。ピストル、航空図、通信暗号等々、さしあたって身近にあるものを集めて、倉庫へ収納して鍵をかけたが、やがて、次のような内容の社内指示がだされた。
一. 防空壕内に保管してある食料品を全職員へ配布する
一. 航空機は部品等が盗まれないように、厳重に管理する
一. ガソリンやオイルは、付近の社有地にできるだけ埋蔵する
一. 飛行場内の警備を強化する
一. 各人所有の秘密書類は全部焼却処分にする
一. 流言飛語に惑わされず、再指示があるまで、従来通り出社する
このような指示がつぎつぎとだされたが、職員たちの気持は落ち着くどころか、日に日に敗戦の混乱が募っていった。ある朝、誰が操縦してきたのか、突然、海軍の新鋭単発水上機が、滑走台横に乗り捨てのままになっていてビックリしたが、すでに誰も関心をもつ者はいなかった。
9月に入って、耳を疑うようなビッグニュースが飛び込んできた。既にGHQ(極東軍司令部)の認可済みである、川西九七式大艇の胴体に、大きな緑十字のロゴをペイントして、台北まで直行輸送飛行する話だった。これは台湾経済復興支援のために、何億という日銀がギャランテーする現ナマを航空輸送する話だった。台湾の治安についてはまったく情報がなく、飛ぶのに必要な航空図はすでに焼失したり、飛行機の整備状態も不安であったが、とにかく久々の操縦桿を手にすることが嬉しく、無事目的を果たし何とか横浜に帰還できた。このことについては別項で述べる。
毎日が不安な日々であったが、いよいよ米軍の先発調査団が、MP同伴で横浜支所に乗りこんできた。日本人はかなり緊張していたが、彼等は割合リラックスした態度で屋内にはいりこみ、解かり易い英語でユックリ質問するなどの紳士的な振る舞いに、我々日本人はホッとしたものである。主として建物などを調査しただけで、なにも没収していかなかった。
11月に、米海軍機とソ連の飛行艇が、ほとんど同時に飛来し、二式大艇、コンソリーデッド、ソ連の飛行艇の3機が仲良く磯子の沖合に停留したことがあった。そんな中、二式大艇がずば抜けて大きく、あらためてその素晴らしさに感動したものである。その後、二式大艇はアメリカ本国へ送られ、その構造や性能がテストされたが、40年ぶりに里帰りし、現在、海上自衛隊鹿屋航空基地史料館にその雄姿をみせていることは、多くの人の知るところである。
ついに昭和20年10月、思い出多い海洋部横浜支所は、大日本航空解散と同時に、残務処理事務員数人を残して余裕をもって解散となった。
2. 九三式水上練習機を修理
この年の暮れになって、米軍のジープが突然、磯子にある我が家の前に止まった。どかどかと玄関に入り込んできた米兵に、何事ならんとビックリしたものだ。
「あなたはパイロットをしていたミスター・コシダですか?」
「そうだが・・・・」
「オーケー、 一緒にきて仕事を手伝ってくれないか?」
ニコニコして尋ねる米兵の顔に、何となくつられて「オーケー」と同意してしまった。近所の人々が心配そうに見守るなか、そそくさとジープに乗り込んだ。行き先は、薄々感じたとおり根岸飛行場ターミナル・ビルであった。
「この飛行機のエンジンを整備してなんとか始動してくれないか?」
目の前には、かつて学生航空連盟で使用していた九三式中練水上練習機が1機、元ターミナル前に引き出されていた。懐かしさに感動しながら近づいていった。翼の先端がチョン切ってあり、水中舵が新たに取り付けられた改造水上機になっていた。しかし、エンジンは終戦以来使用しなかったので、どうしても始動しないという。
「ハハーン、この飛行機で奴らは水上モータ・ボートよろしく遊ぶつもりだな」と、彼等の意図を感じとった。「オーケー、お安い御用だ」好きな飛行機のことなら任せておけという訳で、寒さも忘れて、油まみれになってトンチンカンやっているうちに、エンジンが勢いよくかかった。見守っていた将校連中は大喜びで、拍手と握手責めにあい、私は得意満面だった。
こんなことで私は、それ以来、日よりの良い日には将校たちのレジャー専用水上機にされた九三式を操縦し、根岸湾を猛スピードで、爆音たかく水上滑走する快感にひたったものだ。しかも、将校レスト・ハウスで、当時、日本人にはとても手に入らなかった高級なご馳走にありつけた。
その上、このことが縁になって、米軍通信補給部隊でエンジニアとして働くチャンスに恵まれ、技術者のサラリーを貰いながら、航空機用グランド・パワー(移動発電機)の修理や点検する仕事にありついた。当時、極秘にされていたGCA(地上誘導着陸装置)の小さなコントロール・ハウスの中に電源修理のため潜り込んだことがあった。地上管制官が、CRT(レーダーの映像)上の機影を見ながら、飛行機の着陸時の最終進入を誘導しているのを間近に見て、その進歩に驚いたものだった。
3. 新生日本航空の誕生
昭和27年7月15日、戦後の航空法が施行され、長かった7年間のブランクから解放されたときは、さすがに感慨無量であった。そして、それまでの航空無線関係の施設での仕事が大いに役立ったことは幸運だった。パイロットだったとはいえ、『芸は身を助ける』の諺どおり、多少なりとも電気、機械の知識が役立ったが、これは、かつての上司だった九州帝大出身の海軍技術将校だった寺田氏に負うことが大きい。彼は空母で仕事をしていたが、機会あるたびに、特別に個人教授をしていただいた。
航空が日本人の手で再会されるまでの間、横浜支所の福田、小野塚氏ら数名が海上保安庁に就職し、後に南極探検隊のヘリコプターの乗員となった者もでてきた。
運航をノースウエスト航空に委託する形で、待望の日本航空が産声をあげようとしており、日本の空にもいよいよ民間航空の息吹が聞こえてきた。
一方では斎藤進氏(のち日航専務)が立ちあげようとしている『日本国際航空(株)創立事務所』が、昭和28年春に、大阪商船5階の一角に設立された。ブラジルに移民した何十万もの邦人との交流をはかるべく、飛行機を飛ばそうという計画である。パイロットをはじめエンジニア、通信士、地上職と、三々五々と集まってきた。かつての猛者の顔には、明るい希望がみなぎっていた。皆一様に、航空界再開の胎動を感じとっていた。
航空界の動きは目まぐるしく変遷し、外国航空会社数社による新設会社立ち上げの画策もあったが、結局、政府をはじめ、関係者の努力により却下された。昭和28年10月1日に新生日本航空が誕生し、日本国際航空は、これに吸収される形で幕を閉じた。日本国際航空に所属していた社員は、そのまま日航に横滑りし、私も東京支所乗員課に籍をおくことになった。
関連情報
航空局に設置されたリンク・トレーナー
現今のシミュレーターの前身で、始動すると飛行機の操縦席で操縦するのと同じ様に上下左右自由に動き、飛行用計器は航空機と同じ様に配備し、盲目飛行(計器飛行)の練習に最適であった。当時日本では一機のみ航空局に新設された。米国式計器飛行の慣熟に貴重な資材であった。それまでは、操縦士要員はアメリカへ出張してリンク訓練をうけ、教育の課程を終了していた。