飛行艇パイロットの回想
-横浜から南太平洋へ- (11) 九七式大艇奇跡の生還
歴史
1. 砲撃と地震のお出迎え
昭和17年1月早々、軍艦マーチが勇ましく鳴り響き、例によって「わが帝国陸海軍は、ニューブリティン島のラバウルを陥落、上陸に成功した」と、大本営発表があった。ラバウルは、はるばる赤道を越えた南太平洋での、難攻不落といわれた自然の要塞であった。湾入口には、小高い山があり、内地の佐世保のような地形である。第四航空艦隊基地トラック島では、すばやく海軍航空隊の増援作戦により、ラバウル航空隊飛行場群へと、大挙して最前線基地要員の大移動が始まった。
海軍と大日本航空海洋部をふくめて、8機の九七式飛行艇が配置された。狭い航空隊基地の滑走台前の駐機場には、トラック経由で乗り換える乗客、艦船からの移動、飛行艇に載せるために積み重ねられた貨物や乗客の手荷物整理、飛行艇の整備や給油で賑わっていた。海軍特有のピッピッと注意を促す笛の音までがヒステリックに聞こえる。あたかも田舎の小さな飛行場が一晩で大空港ターミナルに変貌したような観を呈していた。大日本航空の大型飛行艇による輸送業務はフル回転となり、今日はラバウル、明日はトラック島へと、われわれも連日のフライトに没頭し多忙の日々を送っていた。
トラック島から赤道直下を通過し、南半球に入ると途端に下界の島々は美しい白浜の珊瑚礁の景観が急変し、椰子の木をしのぐかにみえる潅木の繁みが目立つ密林の珊瑚礁が次々と現れて別世界の様相に変ってくる。ニューアイルランド島のジャングルを左に眺めながら高度を下げると、あたかも生きている地球を表現しているかのごとく活火山の噴煙が南太平洋の空を焦がしていた。低空で不気味な火山の麓をまわりラバウル湾内にアプローチ(最終進入)を開始すると、突然ドンドン・・・という爆発音とともにわれわれに向かって機銃掃射が開始され、曳光弾が飛行艇に向かって飛んでくるや目の前で炸裂しだした。
「なにを血迷って味方の飛行機を打つのだ。止せ、止せ」頭にきながら、大きく2~3回翼を振りバンクしても全然効き目がない。仕方なく湾口から離れて退避すると攻撃が止むのだ。完全にわれわれを敵機と勘違いしている。一体どうなっているのだ。「どうしょうか、どうせ日本軍の機関砲はなかなか命中しないだろう。いや命中するなよ、頼むぞっ。やれやれ退避して再び湾口に向かうと、かえって攻撃が激しくなり着水操作に移れないぞ」低空での残存燃料はどんどん減少している。「湾外は南太平洋の荒波で、着水は湾内以外は不可能だ」
こうなったらもはや観念して突入するしかない。思い切って突入態勢に入ると地上側も「日の丸」がみえたのかやっと射撃を中止してくれた。なんとか無事にラバウル湾に着水して機内の残飯を全部海中に放り投げた途端に、すばやくジョーズのような巨大なサメがよってきて箱ごとガブリと噛みつき、おまけに、飛行艇の底にドシンと体当たりしてくるではないか。飛行艇もろとも壊すほどの勢いだ。
湾内だから大丈夫だろうと思いしや、ラバウル湾内はそんな生易しいところではなかった。海中に物を捨てては危険だということをすっかり忘れていた。早速、上陸して基地司令への到着報告へ出向いた。「こんにちは、ただいま到着しました。それにしても酷い目にあいましたよ。機関銃掃射のお出迎えにはビックリしましたよ」
「すまん、すまん。多分、陸さんの警備隊が四発の飛行機は敵さんに、きまっていると思いこんでいるのでしょう。ここは連日連夜、艦上爆撃機とB-24の空襲で搭乗員は無論、ソロモン諸島では必至の攻撃態勢を布いており、ラバウル基地でも全員がピリピリしている最前線ですから勘弁してやって下さい」いとも寛容な航空隊司令の言葉だった。だが待てよ。すべてに驚ろかされぱなしで、ひがみっぽくなっていた我々に「最前線のラバウル基地はちょいと違うんだぞ!」と、掃射やサメと同じで一気合をわれわれにいれたのかなぁ、と思えた。
しかし、どうも腹の虫がおさまらない。「これからは、二度と同じような間違いのないように綿密な連絡と十分な注意をしてもらいたいものです。こちらは空中だから危険極まりない。地上とは違うのですよ」食ってかからんばかりに憤懣を吐きだした。「よくわかりました。もしよかったら航空隊基地とこの周辺を案内させます。それから後程、ビールをお届けしますからどうぞ召しあがってください」敵もさるもの、われわれの心中をチャンと読みとっているな。さすがに司令だと変に感心することになった。
突然、ドスン、グラグラッと司令室がゆれだした。「あっ爆撃だっ!」身構えたが、司令はびくともしないで悠々たるものだ。「あのぅ、防空壕はどこですか?」さきほどの威勢はどこえやら、すでに緊張して興奮気味である。「ああ、これ位の揺れは火山の噴火でしてね。一日に何回も地震と空襲がありますから、心配ないですよ」ビクビクしなさんな、といわんばかりのニタニタしている司令に一本とられた気分になってしまった。
とんでもない地の果ての地獄へ飛んできてしまったものだ。それにしても今度は人間たちによる科学兵器の恐怖にさらされる爆撃と自然の猛威である地震の日々に苦悩し、一寸先もわからない身の危険をひしひしと感じながら一瞬の油断も許されないのがラバウル海軍航空隊のおかれた状況だったのかとシンミリしてしまったのが私達のラバウル海軍航空隊への初フライトの印象だった。
米軍は、昭和17年6月のミッドウェー海空戦、ガタルカナル上陸も日本軍の積極的進攻に対する応急的防戦だったといってよい。日本軍の驕りと、戦闘指揮の拙劣が米軍に勝利をもたらした。ガタルカナルでは日本陸海軍必至の攻防にも関わらず船艇24隻、飛行機893機、パイロット2,362人、輸送船130隻の大出血を強いられ、18年2月の撤退となる。
このあたりから戦争とは輸送力の戦い、言い換えれば国力の差ということが歴然となる。以来米軍の攻勢に歯が立たず撤退し続け、戦面は縮小の一途をたどることになる。一方米軍の攻勢を支えたのはその生産力の強大さであった。それは量だけでなく、兵器はもとより戦争遂行上の必需品すべてに質的向上がみこまれていた。
ガタルカナルの飛行基地から哨戒に飛び立つ米空軍の制空権は、赤道を挟んで北半球はトラック基地からの日本軍の哨戒機の制空権内であり、南半球の制空権は米軍に奪還されていた。遂にラバウル航路は見張りの強化と険悪な緊張する輸送飛行航路となった。
2. ラバウルからトラック島基地へ
横浜発定期航路ラバウル線は、サイパン→トラック経由ラバウル。翌早朝トンボ帰りして、トラック島基地経由サイパン、横浜への帰途だった。
機長:中野、操縦士:松井(越田の予定であったがデング熱のため松井君に交代)、機関士:遠藤・他一名、通信士:鈴木・武藤の乗務する九七式大艇は、ラバウルからトラック島基地に帰還するため早朝ラバウルを離水し順調に上昇、水平飛行に移り赤道手前の南太平洋上を飛行中、ガタルカナル基地から哨戒に飛び立った米空軍の哨戒機コンソリデーテッドに襲われた。最後部で見張りを当直していた通信士が発見した時には時既に遅しで、小さい黒点に見えた敵機は忽ち大きな哨戒機になり、大日航機の飛行艇の直ぐ真横にピッタリと攻撃態勢に移り監視された。敵は遅い鈍重な飛行艇と見たのか、ニヤニヤしている操縦士の顔までが見える至近距離にせまった。
我が方は急降下しながら、高度を下げ前方の発達中の積雲に向かって飛行し、2挺しか装備されてない7.7ミリの機関銃を乗客の海軍さんの射撃手に掃射を任せた。
打てば敵は一応遠退き、又接近してくる。敵は余裕たっぷりで、これを繰り返すうちに弾を撃ち尽くした。待っていましたと言わんばかりに敵は素早く横上に近付き盛んに攻撃のチャンスを狙っている。猛獣にねらわれた子羊同然。
逃げ切れない。窮鼠猫を噛む!逃げてばかりではなく、向かってみるか?んん・・頭の中は真っ白になった。体当たりも一瞬考えてみたが飛行性能の差があり過ぎる。
撃墜されたら万事休す、目の前の積雲に飛び込むぞ。雲までの距離がわれわれには遠い彼方に感じる悲劇の長距離に感じた。気流が悪くなるので全員ベルトを締め直せ。飛行艇は多少悪気流のためダメージがあると思われるが雲中が天国に見えた。
いつの間にか操縦席に集まって来た士官達も「敵の餌食になるよりも雲の中前方の積雲に向かって逃避する九七式大艇に飛び込め」と号令。なにを考え出したのか遠藤機関士が「ヨシやるか!最後の手段を見せてやるぞ!俺に任せろ」と怒鳴りながら、機関士席を立ち上がった。遠藤機関士は海軍出身で人使いが荒い厭な人間である。時々炎天下でエンジン点検の際プラグの汚れにマグネットを回して高圧電流を送り電流の流れ具合に障害があればプラグ(点火栓)が汚れているので交換するのが地上整備員の居ない基地での機関士の仕事だが、彼は若い操縦士の我々に手伝わせるのが癖で、とぼけた野郎だと嫌われ、皆から遠藤ポッポ(おとぼけ)と呼ばれていた変人。
が、不時着水した場合、救助のために打ち上げて救援隊に自分の位置を知らせる信号弾用拳銃を持ち出し信号弾を敵に向かって撃ったところが、巨大な真っ赤な火の玉から猛烈に噴出している異様なカラーの煙を出しながら飛んで敵機に向かっていった。これは見たこともない新兵器現わると思いしか、敵機は慌いで急旋回しながら遠退いた隙に必死に雲中に飛び込む事が出来、敵の攻撃から逃れたと言う。もつとも敵の制空権の位置(赤道)がギリギリの境だったのも幸いだったのか、米軍機の追撃を振り切って命からがらトラック島基地に無事帰還できた。遠藤ポッポ曰く「俺の花火で敵さんを撃退したワッハッハッハ」とご機嫌。酒嫌いでもビールで乾杯した。
同期の松井操縦士が横浜で静養中の私を、見舞いに来てくれた時には既に南洋の蚊媒介のデングに侵された熱は下がっていたが、やや黄疸気味が残っていた。交替のお礼に磯子界隈で一杯おごり、スケジュールチェンジを「お互い様だ」と快く許してもらった。乗務の予定変更はとんでもない結果を生じる場合が多いのがパイロットの掟のようだ。ドタキャン禁ズだ。松井操縦士の自慢話しを聞きながら「よく生きて帰って来てくれたなぁ、ありがとう」を何回も繰り返した。