飛行艇パイロットの回想
-横浜から南太平洋へ- (15) 二式大艇バラバラ事件

1.大日本航空のパイロットは何故女性達にもてたのか?

 昭和19年9月下旬、秋の訪れは早く半袖から長袖に着替える季節になった。スラバヤ(ジャワ島)で、特別注文の肩章がつけられる上等舶来の生地で仕上げた粋な私物の乗員服に着替えた。派手な飾りの日本刀を左手に本革でピカピカと光沢のある運航カバン、赤めのオレンジ色の半長靴をはきガラスのベルト(のちにビニール製と呼ばれる代物。当時の内地ではみることができなかった透明のベルトで時計のバンドだけでも高値だった)という、戦時では桁外れの舶来品ばかりを身につけた。

 きっと女性たちが見惚れているにちがいない視線を背中に感じながら颯爽と飛行艇に乗り込んだのは、大堀機長と操縦士の私、功刀航空士、坂口、小野両機関士、上山、阿部両通信士の面々。とくに阿部くんは初めての乗務とあって、一番緊張し張り切っていた。空襲下の厳しさが予想される飛行で心の中ででは不安と緊張が渦巻いていたが、わざと笑顔をつくって見栄をはり、手を振って離水していった。

 じりじりと攻撃の主導権を奪還していた米海軍機動部隊の進出を阻止せんがため、フィリピンおよび台湾沖海戦を予想して日本軍最後の切り札となった特攻要員が九州の鹿屋航空隊基地で速成訓練されていた。今回の飛行任務は、彼等を鹿児島から台湾の東港(現在はマグロの出荷港)へ大日航の二式大艇を2往復させて全員送りこみ、特攻機のほうは大日航の陸上機の乗員が直接空輸して台湾に集結させることであった。

 じつはこの計画の直前に、大日航のダグラスDC-3が誘導しながら特攻要員が操縦する特攻機5機と編隊をくみ移動したことがあった。しかし飛行中、雲に遮られて誘導機を見失い2機だけがかろうじて台湾へ到着するという悲劇がおこったばかりだった。しかも追従できた2機の内1機は着陸に失敗して大破し、無事に着陸出来たのは1機だけだった。残りの3機のうち1機は方向違いの中国に不時着、他の2機は行方不明となった。速成訓練の特攻要員には台湾までの飛行は無理であった。

 やむなく海軍は作戦を変更し、大日航の二式大艇を使用し2往復で特攻要員を台湾へ空輸するという極秘特命による任務がくだったのである。二式大艇で鹿児島と東港間を飛行するには、敵の索敵に十分な注意をはらわなければならない。当時の二式大艇では過酷な半夜間飛行を強行する必要があった。
薄暮と夜明け前の早朝を利用しての飛行実施と決まった。

「さぁ、いくぞっ」
大きな緊張と不安を胸に二式大艇は磯子沖を飛びたった。航路中は米軍のP-51戦闘機や艦載機の攻撃をうけないことを願いつつ、巡航にはいった瞬間に攻撃される緊張感は薄らぎ逆に喜色満面の笑みがこぼれた。そして一路、鹿児島へ向けて飛行をつづけたのである。これには知る人ぞ知る理由があった。

 鹿児島市内の繁華街、天文館の北側に、『ひらの』と呼ばれる海軍士官が利用している海軍指定の料亭があった。無論われわれも利用することができる。そこには上級の酒やビールと美食が無制限に飲み食いができた。福岡から床替えし大挙して来た博多美人の綺麗な和服姿の芸者衆が揃っていた。それは、前線へ配置交替要員の士官達や厳しい特攻訓練等に明け暮れている将校たちのストレス解消にはオアシスのような所だった。

 それで鹿児島へ到着するとナイス・S(士官同士では「女性」の意)が酒席にはべる、この世の天国『ひらの』めがけて直ちに行動を起した。始発駅の鴨池からチンチン電車に乗りこんで、はやる気を押さえながらくだんの料亭の前に立った。

 「ガッツイ久しか振りゴワシタナァ、ドゲンシタトー」
早速、大勢のオゴジョ(女性)に囲まれて大声で大歓迎である。金輪際離しませんよと、いわんばかりの出迎えに気をよくして早速宴が催された。
 なんでこんなに大日航の乗員ばかりがもてるのか、の疑問にお答えしなければなりませんな。もう戦後何十年も経っていて時効ということで白状いたしましょう。

 海軍さんの場合は、死を覚悟して戦地に転進する士官達を送りだす送別会の宴では、なんとなく重苦しくじめじめして何かと女性に絡む士官さんもいた。ところがこちらは、自慢ではありませんが、民間人で長髪、海軍さんより見栄をはった高額のチップ、それにお土産は無理をして女性好みの舶来品ばかりを持参してちらかせたものだった。

 「さぁどんどん景気よくパッとやろうやっ」てなことで、立場の気安さと物量作戦でなんとなく景気のいい粋な遊型だったからじゃなかったかしら。当時の海軍さん、勘弁してください。

 と、いうわけで景気よくやっていると廊下が急に賑やかになった。チョイと覗いてみると、階段の四段目くらいから下に積み重ねられた座布団の上目がけて、「○○少尉自爆します!天皇陛下バンザイ!」と、凄まじい叫び声をあげながら順々に若い将校達が飛び降りているではないか。座布団はメチャクチャ、怪我でもしたら大変だ。でも何となく哀れを感じさせる少年的悪ふざけの光景だった。

 「おい、何やってんだい、大丈夫かい?」
 止めるべきか止めざるべきか驚いて眺めていると、仲居や芸者衆が一斉に叫びだした。
 「ソゲン セカラシカコツ イヤナ-(そんな煩いなんて言わないで下さいよ)、あのヨカニセドン(好い男)たち、明朝、飛行機バ乗せられて台湾で特攻隊になるト、ガッツイスカン(大変嫌なことだ)」
 「それにしても、連れていく飛行機乗りはウチ憎くかねぇ。顔バ見たかバッテンが、もし血も涙もある人間だったら台湾へいくふりして戻ってタモンセばヨカト」と哀れんでいるではないか、一体どうなっているんだろう。

 われわれも人の子、決して鬼や畜生ではないのだぞ。でもその憎い悪役を演じているのが自分たちだとはいえず、ダンマリを決めこんでいた。
 「ああ、そうだ。ニセドン(あんた)たちも、明日バ前線に飛ばしゃるたい、充分にキーツケてタモンセ」
 芸者衆はこちらにも抜け目なくお世辞をとった。
 「また、生きていたら来るから、待っててくれよ」
 「ガッイ ソゲンコト ナカ、またきっとオジャンセ(本当に生きていたらなんていわないで、きっときてくださいね)」
 背中をポンと叩かれて送りだされて、ご機嫌で宿へ帰った。

2.さらば祖国よ、サヨナラ!

 翌朝、薄暗いうちに飛行艇に乗り込もうと鴨池の海岸にきてみるとなんたることか、昨晩の芸者衆や仲居さんたちがモンペ姿で白いハンカチをもって特攻隊の青年士官達を見送りに一列に並んで待ちかまえているではないか。
「ウチ憎くかねぇ、スカント(嫌いな人)」と言わした悪役の飛行機乗りがわれわれだとアッサリばれる羽目になってしまった。こうなったら居直るしか仕方がない。 

 「やぁ、ご苦労さん」と手を挙げると、敵もさるもの引っかく者、昨晩あれほどスカントとかウチ憎か飛行機乗りと、ののしったことも素知らぬ顔で
 「ニセドンたちも一緒に送りにきたト、無事に帰って来て、またオジャンセ」
 さすが相手は水商売に徹した百戦錬磨の大和撫子である。

それ以来、私は九州男児は豪快で男尊女卑といわれているが、どうしてどうしてとんでもない間違いだ。オゴジョ(女性)が利口に男をたてているように見せかけ、手の平でチョイチョイと踊らせているだけだ。男を上手くリードして仕事に没頭させ、成果をあげさせる素晴らしいテクニックをもっている。九州男児よりヨカオゴジョ(九州女)の方が、よほどしたたかで利口者だぞと、自分勝手な偏見と屈辱にみちた納得をしたものだ。

 飛行艇が滑走をはじめたとき、夜明け前の海岸ではヨカオゴジョたちのちぎれんばかりの白いハンカチを振りつづけている姿がしばらくの間、目に焼きついて離れなかった。操縦席の面々もサイドの風防を開けて身を乗り出して答えた、語るも涙の一シーンである。
 台湾の土を無事に踏みしめると、昨晩階段から飛び降りていた面々が覚悟を決めた真剣な目つきで飛行場の宿舎へ消えていく後ろ姿が目にはいった。
 「頑張れよ、手柄をまっているぞ、さようなら、さようなら・・・・」
いつまでも、いつまでも手を振っていた。

3.大型台風の来襲

 このようにして二度の重要任務の輸送飛行は終わった。帰途はバラスト(機体の重心調整に積む重り)の代わりに、砂糖、あめ玉、バナナ、米までを後席に積み重ねるくらいにたくさん積み込んで無事、鹿児島へ到着できた。任務遂行後の晴れ晴れとした気持でくだんの料亭『ひらの』への行動予定を語りながらひと風呂浴びていると、出張所長からの連絡がはいった。

 「じつは横須賀海軍航空廠の幹部5人を、できたら明朝横浜まで乗せていってくれないか。東京行きの列車は鈍行で鹿児島から東京までは2日もかかる。それに列車が空襲でも受けたら、たまったものじゃない」
 「よっしゃ、了解」

 快く承諾するのもそこそこに、今夜はすき焼きでドンチャン騒ぎだぞと無論『ひらの』に直行、カモネギの砂糖,あめ玉、バナナをぶらさげてオンパレードと相なった。一杯機嫌で鼻歌まじりに指定の宿に引き揚げると「明朝は、できるだけ早く鴨池基地にショーアップされたし」との、所長からのメッセージが届いていた。

 東の空がようやく明けようとしていたころに基地に到着。すでに所長が待っていた。
 「昨晩は遅くまで電話が通じなかったのでメッセージですませたが、実はまずいことになったんだ」
 所長が示した天気図を見た瞬間にビックリ仰天。幾重にも○印で囲まれた超大型台風があたかもわれわれを狙っているかのごとく、真っ直ぐに鹿児島へ向かって直進する勢いじゃないか。こんな大きな台風はみたことがない。初めての経験だった。

 よくもまあ気象屋さんもみてきたように書くも書いたものだと見とれていたが、とにかく感心してノンビリしている場合ではない。一刻も早く飛びたたないと飛行艇もろとも人家まで吹っ飛んでしまう。下手をするとイチコロだぞと、大急ぎで出発準備にとりかかった。
 慌ただしく走りまわっているところへ海軍航空廠の5人が急いで駆けつけてきた。最敬礼をしたあと、
 「あのう荷物が多少あるのですが、飛行機では各人1個だけでそれ以上
は駄目でしょうね」
 遠慮しがちに言うその側には、沢山の荷物が積んであるではないか。

 「構わない、早く後方に積みなさい」
 「有り難うございます。皆様のご恩は一生忘れません」
 何度もお礼をいって喜色満面、いそいそと荷物を積みはじめた。長い単身赴任だったのだろう。待っている家族へのお土産と思える大きなトランクやダンボール箱を積み込んだ。しかし皮肉にもこれが数時間後、全部海底の藻屑になろうとは誰一人知るよしもなかった。

4.河和海軍航空隊水上機基地に着水

 翌朝、いよいよ離水開始。鹿児島に後ろ髪を引かれる思いで東の空に向かって高度を上げ、快調に飛行をしていた。浜松を過ぎたあたりから関東地方の南にあった停滞前線が台風の影響を受けて活発化したのか、雲も低くなり、ポツリポツリと雨が降りだした。

 雲底までの高度わずか200㍍の超低空で下田沖を海側に迂回しているとき雨が一段と激しくなり、それこそ滝のなかか消防用ホースで放水されているような豪雨となってしまった。無論、視界はゼロ。これではとても伊豆半島を迂回するどころか、どこかの山に激突すること必然。東京湾内に滑り込むことは不可能だった。これ以上飛行をつづけると危険である。

 「大堀さん、三河湾の河和海軍航空隊水上機基地は天気が良かったようですから、明るいうちに引き返しましょう」
 「よしっ、戻ろう」
 衆議一決し目的地を変更、知多半島の河和へ戻ることになった。海の方に向かって慎重に右旋回し、ついに雨域を抜け出し河和基地に着水、水上偵察機が使用している小型ブイに無事停留した。西村当直将校に飛行計画変更報告を終え、士官食堂でゴクッと飲んだビールのうまさは、生き返った思いだった。

 無理をせず無事だったことを祝い、銀飯を三杯もお代わりして腹一杯になった。きっと今ごろ鹿児島は大嵐で『ひらの』の屋根でも吹っ飛んでるぞと冗談をいって一安心していると、天気図をもった気象担当士官が神妙な顔をして入ってきた。
 「皆さん、困ったことになりました。台風が種子島の南方海上から速度を速め、しかも東北東に進路を変更して愛知県に上陸、当地を直撃する公算が大きくなったのでお知らせとご相談にまいりました」

 例よって、ジロッとわれわれの反応を探っている目つきである。天気図上ではまさに台風の中心がこの地方を向いている。
 「ありゃ、一体どうなっているのだ。どんな大きさの台風ですか?」
 「飛行艇なら、波浪と強風に対して海上の荒波にのみ込まれないように飛んでいる時と同じ操縦をして海上で機体を水平に保っていれば十分破壊から守れると思います。最悪の場合は、エンジンをかけて風に正対していれば大丈夫でしょう。船では常識ですが、もっとも貴方たちの方が専門家でしたね。失礼しました」

 詳しくいらんことをよくしゃべる士官はさらにつづけた。
 「一言だけつけくわえますと、おそれおおくも陛下から授かった兵器はわれわれ海軍では命に代えても絶対に守り抜くのが当たり前であります」
 何が一言だ。彼は大袈裟に『陛下』を口にする時は、ピーンと不動の姿勢になって、ジロジロ。お前たちの命より飛行艇の方が大事なのだ。さっさと吹き荒れる真っ暗闇の海にいって全力を尽くして飛行艇をまもれと、いわんばかりであった。

 窓の外は次第に風雨が強くなり、大木の枝がおおきく左右に揺れている。
この真っ暗闇の真夜中に、どうして風の方向を知れというのか。ましてやエンジンなど回して、何処をどうさまよえというのか。理屈もなにもあったものではない。人の命をなんと思っているのか。だからオレは海軍軍人精神が嫌いなのだ。孫子の代まで金輪際海軍にはわが子孫はいれないぞ、と思った。

 やっとのことで厭だった海軍での委託訓練は幸運にも飛行艇の訓練終了と同時に召集解除となり、佐世保海軍航空隊をオサラバして憧れの大日本航空のパイロットになったのだ。将来は国際線で活躍できる希望を胸一杯に膨らませて横浜支所に入社したのだ。海軍と縁が切れたと喜んでいた入社直後のことをふと思いだしていた。簡単に人間の命が代えられるもんか、安全第一を厳守する民間航空飛行艇精神が解ってないな!怒りで胸がムカついた。

 大堀機長が、重い口をひらいた。
 「どうも有り難う。みんなで相談して返事しますよ」
 穏やかというか、沈着冷静というか、まことに優柔不断な答えじゃないか。オレならば<そんな偉そうなことをいうなら、海軍たるもの自分でシッカリやってみろっ>といってやるのだがと、悔しくて自分の顔がやや青くなったのを感じた。<おれはやっぱり若いのかなぁ>と一歩さがったが、
 「大堀さん、わざわざ危険を犯すのはどんなものでしょうか。この暴風雨のなかで、一体何ができるというんですか?この嵐じゃ飛行艇に乗りこんでも、壊れるときには壊れますよ。もし海上で壊れたら、我々は死あるのみですよ。せっかく生きて地上にいるのに、なんで大荒れの海上にのこのこでかける必要があるのですか」

 私も血圧がかなりあがった。今までの経緯で憤懣が爆発して、ついにキレてしまったようだ。幸いに航空士も機関士も同調してくれた。
 「しかしねぇ、もし壊れたら海軍の連中から『なんだあいつら、やっぱり民間人か』と馬鹿にされるぞ。まったく頭にくるが、ここはひとつわれわれが全力を尽くして飛行艇を守る姿勢を海軍にみせてやろうじゃないか」
 鶴の一声だった。通信士までが乗りこみますといいだした。
 「通信士が飛びあがらない飛行艇になんで乗るのだ。命を粗末にするなよ」
 
 とはいってみたものの、温厚で努力型の上山くん、一方、一番若い阿倍くんは大真面目な好青年で、しかも初の通信士乗務でもあり張り切っていた。
階級意識の強い戦時中のことである。
 「全員で守ります。地上に私達だけが待っていてもかえって心配です。なにかとお手伝いしますから・・・・」
 2人の声が返ってきた。結局、不承不承7人全員がゴム・ボートで二式大艇に乗りこんだ。ところが急に風が弱くなり、薄い雲の影から月明かりまでが差し込んでいるではないか。操縦席に座ると視界も良くなり、海軍基地からの明かりがハッキリと目の前に輝いている。今までの興奮が恥ずかしくなった。 

5.艇内の奮闘

 「越田くん、これで海軍さんも文句はいえないよ。しばらくしたら懐中電灯で信号を送って帰ることにするから、もう少しの辛抱だよ」
 機長から慰められて、<オレが間違っていたかなぁ>と、おもいなおしていた。しばらく手持ちぶさたで操縦席に座っていたが、ふと窓外の波に目を移すと小さい三角形波のなんともいえない無気味な模様が浮かびあがった。今までハッキリ見えていた基地の明かりが左に移動して、いつの間にか後ろにまわっているではないか。

 風向きが変わったのだなと考えていると、突然機首が下がり大きなうねりの中に突っこんだ。次の瞬間、目の前が波のしぶきで真っ白になった。同時に機首が10°くらいアップ、また真っ黒なうねりの中につっこんでダウン。またアップ、ダウン、アップ・・・・完全に恐ろしいポーポイズ運動を起してしまったのだ。

  
 動きが早いから、操縦桿は機体の姿勢を水平に保つには逆操作で押す、引く、を素早く繰り返していたが、残念ながら人力の限界を超え、ポーポイズの振幅はますます増幅していった。まるで積乱雲の中の乱気流に突っ込んだ状態で、さしもの二式大艇もどうすることもできない。プロペラはとみると、いとも簡単にクルクルと空回りしているではないか。強烈な風が吹いている証拠で、いつの間にか波の高さが10㍍以上もあるような大暴風雨になっていた。

 哀れ日本海軍の誇る二式大艇は木の葉のごとく浮きつ沈みつで、大自然の脅威に完全に翻弄されている。操縦輪で胸でも叩かれたら大怪我をするぞと、操縦席をいっぱい後方へ引っ張って構えなおした。
 「おーい。前席も客席も破壊されるおそれがあるから危険だ。全員操縦席に集合してくれっ。航空士も通信士もよんできてくれっ」
 機長が大声で指示をだした。

 「はい、了解」 坂口機関士が下へ降りていった。いっこうに帰ってこないどころか、そのうち
 「南無妙法蓮華経、々々々々・・・・・」
 と彼の読経の声が段々大きくなって、最後はヒステリックな叫び声になってきた。怪我でもしていたら大変だ。私は操縦桿を機長に託し下に降りていくと当の機関士が真っ青な顔を向けた。
 「どうしても航空士のドア-が開かなくなった。多分、前方はすでに壊れて浸水し航空士は死んだと思うよ。
 「南無妙法蓮華経、々々々々・・・・・」また始めだした。

 ドアを通常操作通り押すと難なく開いた。功刀さんが大きな目を見開いてこちらを睨んでいる。手招きで上へ呼んだ。ベテランの機関士は、緊張のあまりドアのノブを懸命に引っ張って開けようとしていたのだ。笑っている暇もない。<とっさの場合、こうゆうことは世間によくあることだ>。自分に言い聞かせて操縦席へ戻ったら通信士が上山くん1人だけである。阿倍くんはもう駄目だと早とちりして、上山くんの制止する腕を振り切って客室のドアから海に飛び込んだという。その際、頭をドアの角にぶつけたらしい。皆、沈黙しながら顔を見合わせた。

 「ドカーン」、「ガッチャン」、「ドッシーン」
 突然大きなショックと同時に操縦桿が完全にロックされ動かなくなってしまった。ついに波に呑まれて機体が壊れてしまったのだ。万事休すだ。恨めしそうにうねっている波を睨んだ瞬間、「あれっ」波が去ったあとに青々とした草が見えるではないか。これは陸上に間違いないぞ。打ち寄せる波が引くと再び確かに草が現れる。願望のため錯覚かと目を疑ったが間違いない。助かったぞ! 

 「大堀さん、私の右下は陸上のようですよ。窓からぶらさがってみて、もし陸地だったらそのまま飛び降りますからいいですか。手を窓から離したら下は陸上ですから早く皆つづいて降りてください」
 「わかった。十分、気をつけて無理をせずやってみてくれ」
 注意深く外に体をだし、窓の手すりをしっかりと手で握り、機体に沿ってそろりそろりとおりはじめた。<間違いない、絶対に地べただぞ>。思い切って手を離すとドスッと両足がシッカリ大地を踏みしめているではないか。
<しめたっ、もう大丈夫だっ>風と波に体をもっていかれないようにしゃがみ込み、地面の草を手当たり次第に掴んで体を固定しようとしたが、肝心の草が根本からすぐ抜けてしまう。まるで藁をも掴む様だ。

 見渡すと、幸いに直ぐ近くに数本のロープが張り巡らされているのが目にはいった。しめたっ!急いで引っ張ると、これこそ命綱。手応え十分だ。何故か息苦しい。<そうだ。風上に向いていたんだっ>。急いで風を脊にしたとき助かったと思った。それにしても、皆何故早く降りてこないのだ。操縦席を見ると懐中電灯が慌しく前後に揺れている。<そうか、きっと降りる準備をしているに違いない>。ようやく落ち着きをとりもどしていた。

 波はすっかり引き、水たまりと草がハッキリ浮きあがっていた。ところが飛行艇の胴体がセメントで囲まれている防波堤から少しずつ離れていくではないか。もし沖にでも流されたら今度こそ助からないぞ。
 「早く降りてこい、風向きが変わっているぞーっ」
 怒鳴っても、ビュービューと強風に打ち消されて通じないらしい。手招きするがこれも効果がない。<駄目かなぁ、なんとかならないかなぁ>と、見つめていると、翼上にだんだんと懐中電灯の灯が増えて、私の方へ向かって移動してくるではないか。1人2人3人・・・と、顔がわかってくるときの嬉しさと感動のなか、皆無言の行で降りはじめた。地面に降りた者と首を上下にして抱き合うが、嬉しさで声が出ない。

 人数を数えてみると、阿倍通信士を除いて坂口機関士の姿がみえない。飛行艇は防波堤からすでに離れて沖へ流されていた。
 「確かに坂口くんは一緒だったんだ」小野機関士がつぶやくようにいう。
暗がりを振り返ると、確かに一灯の光が目にはいった。近寄ってみると坂口さんが倒れているではないか。みんなで抱え起し、基地のサーチライトの照明の方向へ歩きだした。相変わらず強風が吹き荒れ、風に吹き上げられ舞い上がっている丸太等に注意しながら、
 「頑張れ、頑張れ」 合唱しながら、一歩づつ前方へ進みだした。
 「眠い、休ませてくれ」 坂口さんが弱々しく呟いている。 
 「ここで寝たら死んでしまうぞっ。なんだぁ、機内で唱えていたがなにが南無妙法蓮華経だっ!」(日蓮の信者さん、怒らないでください)
 軽く坂口さんにピンタをくらわし、気合を入れながら埋立地を歩くこと15分くらいだったろうか。しかし、われわれには1時間以上に感じられた。

6.阿倍通信士の死

 ふと目が覚めると、なんとベッドの上だ。軍医、何人もの衛生兵が心配そうに覗き込んでいるではないか。
 「水上機のブイは小さくて、二式大艇には役に立たなかったのだ。幸いに埋立地の右サイドすれすれに流されたので大破は避けられて本当に幸運だったね。皆さん興奮していたので精神安定剤の注射を打ちましたが、どこか痛いところか動かしにくいところはありませんか?」

 「私は最初に楽に飛び降りることができたので何ともありません」
 「××兵曹、じゃ検査するから裸にしなさい」
 ハイと返事をした衛生兵は、大きなハサミで私の自慢の舶来品の服を遠慮なく切り始めようとした。 
 「ちょっと待って下さい。ちゃんと自分で脱ぎますから」 慌てて叫んだ。
 「今は痛くなくても怪我をしていると、少しでも動かすとあとで取り返しのつかない結果になることが多いのです。こんな時には、われわれは切り捨てることにしているので絶対安静を保って言われた通りにしてください」
 アッという間に、舶来の服、下着、それから得意の半長靴までずたずたに切られ、哀れボロキレと化してしまった。

 検査の結果、坂口さんは翼上から滑り降りた際、飛行艇と地面との間に軽く挟まれてあばら骨3本が折れていたが、他の乗員は異常なしと診断結果がでた。ほっとしたところで、急に舶来品のことが頭をよぎった。
 「だから自分で脱ぐといったじゃないですか。脱出の際、カバンを最初に地上に投げ出しておけば損害ゼロだったのになぁ」
 現金なもので、助かった途端に人間の貪欲な本性が鎌首をもたげた。

 翌日は台風一過で、昨夜の嵐が嘘のように晴れわたっていた。海軍の案内で白砂の海岸にきてみると哀れ、飛行艇は木っ端微塵、無惨にも砂に埋もれたエンジン2基のみが波打ち際にあった。無論,積んでいた荷物も海軍廠の人たちのお土産も海の彼方へ消えていた。そのすぐ側に、うっ臥せの状態で3分の1ほど砂の中に埋まった阿倍通信士をみつけた。無念、やはり死んでしまったのかと急に目頭が熱くなった。全員で合掌し、冥福を祈るほかに為す術がなかった。

 あたりを見回すとどうしたことか、砂糖の小袋が一っだけ砂上に投げ出されているではないか。小野機関士がとりあげてみると、どこも破れてなくて、十分使用できる。開封してみると、幸いに中には海水が入ってない。もったいないから宿屋の女中さんにやろうというわけで持ち帰った。女中さん達も大喜びだった。

 「ソオキャモ、それじゃ飛行機乗りさん、お汁粉と久しぶりに砂糖を使って煮物をつくりましょう。楽しみにしてチヨー、イイキャモ」
 冗談じゃないよ。仏さんの側にあった砂糖などとても喉を通らない。皆で顔を見合わせたが、さすが年の功の小野さん、
 「いやぁオレたちは台湾で砂糖漬けだったから、結構、結構。自由に使ってちょうだい」
 「それではお言葉に甘えていただくキャモ。飛行機乗りさんたち気前がいい人ばかりナモシ。ワシラの配給のお酒一升と交換すことにするからイイキャモ」

 その夜は阿倍通信士のお通夜となった。女中さんから貰った酒や海軍からの差し入れもあり、海軍士官たちも参加してくれた。
 そして前途有望だった好青年、阿倍通信士を偲んで語り合った。台風一過の次の日、海軍式葬儀も無事終了し、阿倍通信士の遺骨は白木の柩に入れられ、ご両親の胸に大切に抱かれて特別仕立ての九七式大艇で河和海軍航空隊水上機基地を離水し、許婚の待っている横浜へ帰還したのである。

執筆

越田 利成

元大日本航空パイロット、元日本航空パイロット

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