東京帝大航空学科(昭和2年)5回生同期生(その1)
歴史
[生涯の出会い]
東京帝大工学部航空学科は大正12年(1923年)に第1回卒業生3名を出した。当時、国内唯一の航空学科は創設以来幾多の俊才を輩出していったが、5回生となる昭和2年卒業生の中に、その後の日本の航空における強大な牽引役となっていく異才が集中した。
大正13年度(1924年度)の東京帝大工学部航空学科入学志願者数は20名前後。定員7名であるから、入試倍率は3.0倍ということになる。3月の発表で合格者は8名出た。7番目の点をとったのが2人いたために8名になったという。合格者は一高から3人(木村秀政、堀越二郎、駒林栄太郎)、松山高校から3人(由比直一、児玉幸夫、村上和祥)、山形高校から2人(中川守之、土井武夫)。このうち村上は在学中に病死した。
我が国の航空工業は緒に就いたばかり、学科も創設後間もない時期であって、大学の講義は今日からみれば満足すべき内容ではなかったようで、教える側にとっても英独仏の原書が頼りであり学生はその分独力で勉強した。実習や見学から学ぶことは少なくなかった。かれらは1年生の夏、実習で所沢にある陸軍補給所に行き、己式一型練習機(アンリオHD14E2)、乙式一型偵察機(サルムソン2A2)、甲式一聖戦闘機(ニューポール29C1)などの木製羽布張り構造の陸軍制式機や、その他戦利品としてドイツから送られてきた全金属製のユンカースJF6旅客機に目を見張っている。2年生の時には小石川にある陸軍の砲兵工廠において海防義会のKB飛行艇を試作しているのを見学に行っている。このKB飛行艇は全金属製構造の単葉飛行艇であり、当時の日本で飛行機と言えば木製が当然だった時代に画期的な機体であった。最終学年の3年生になっても大学において金属構造の飛行機について講義を聴くことはなかった。
昭和2年(1927年)3月、卒業後の進路はつぎのように別れ別れに散らばった。
木村秀政 | 大学院 |
駒林栄太郎 | 航空局 |
堀越二郎、由比直一、児玉幸夫 | 三菱航空機 |
中川守之 | 石川島飛行機 |
土井武夫 | 川崎航空機 |
当時の日本は太平洋横断飛行熱がいやがうえにも高まっていた。いや、世界で高まっていた、という方が正しいかも知れない。海のむこうでは大西洋をニューヨークからパリまで無着陸横断に成功した飛行家に2万5千ドルの懸賞金がかかり、各国のエースが挑戦しては幾人かが命を落としていたが、ついに昭和2年5月21日、無名の郵便飛行士リンドバーグが『スピリット・オプ・セントルイス』で33時間30分大西洋無着陸横断飛行の快挙を成し遂げた。航空は世界の人々の耳目を集めるようになり、航空技術は「より速く、より遠く」を目指してしのぎを削る世界へ入っていった。後で木村秀政の項で述べるが、日本でも太平洋横断飛行に懸賞金がかかった。航空を修めた7人の帝大生が社会に巣立っていったのはそんな時代だった。しかし、明るい世相はいつまでも続かなかった。日本は大陸侵攻から太平洋戦争へと第2次世界大戦への道を突進していくからである。
- 昭和20年8月15日敗戦。
- 同年11月18日連合総司令部による航空禁止令発動。
- 昭和27年4月サンフランシスコ講和条約の発効。
- 航空禁止令の解除。
その間7年間。この間に世界の航空機技術はそれまでと比較ができない程の進歩を遂げていた。「先進国に追いつけ追い越せ」を旗印に通産省は昭和31年、中型輸送機YS11計画を発表し、設計に日本の総力が結集された。そこに、木村秀政(当時、日大教授)、堀越二郎(当時、新三菱重工・技術群次長)、土井武夫(元川崎航空機試作部長)が参加した。他に太田 稔、菊原静男が参加しており、それぞれが戦中に、航研機、零戦、飛燕、隼、紫電(改)の戦闘機を設計しており、5人のサムライと総称されたのである。平和な時代になって、民間機設計に、かつての東京帝大航空学科5回生3人が卒業以来再びあい見えることになり、寝食をともにすることになった。
大学卒業後からYS11設計製造で再会するまでの木村秀政、堀越二郎、土井武夫の3人について、木村秀政を筆頭にして一人ひとりの足跡を辿ってみたい。
[木村秀政]
青森県五戸町に明治37年4月13日生。昭和61年10月10日没。
東京府立四中を4年で修了して一高合格。東京帝大航空学科卒業。大学院進学。航空研究所(航研)に入所。
航研での初仕事は、その頃帝国飛行協会で計画していた太平洋横断機『桜』号の強度計算である。リンドバーグが大西洋無着陸横断の成功によって、世界各国の飛行士が世界中の未開拓空路の一番乗り競争をしており、当時、日本からアメリカ大陸に至る北太平洋横断コースは未開拓のまま残されていた。ここだけは日本で、というのが我が国航空界の悲願であった。昭和2年帝国飛行協会が国産機による太平洋横断飛行計画を発表した。この飛行のための『桜』1号機が川西製作所で昭和3年に完成したが、木村の仕事は師の岩本周平に従い川西製作所嘱託として部材の強度計算書を作り強度試験を実施することだった。しかし航空局の横槍が入った。航空局は大正10年に成立していた法律54号航空法を昭和2年6月1日に施行することに伴い、5月5日逓信省令第8号で施行規則を公布したばかりであったので、強度に関しては特に厳しく、2号機についても決して譲ることがなかった。結局、太平洋横断飛行計画は中止の止むなきに至った。計画が頓挫した帝国飛行協会では、田中舘愛橘らの理事全員が辞任する騒ぎが起こった。岩本や木村は記録挑戦飛行狙いの機体に、民間航空旅客輸送のために設けられた航空法が厳格に適用される無粋を残念がった。
航研での次の仕事は、昭和7年2月末に起きた白鳩号の事故調査である。当時日本航空輸送株式会社が大阪・福岡間に水上機による週6便の定期運航を行っていた。使用機材はドイツのドルニエ・ワール双発飛行艇を川崎造船所でライセンス生産したものであったが、福岡に向かう途中、はげしい吹雪の中を八幡市南方で墜落した。乗客はいなかったが乗員全員が死亡した。文部省の航空評議会に事故調査委員会が設けられ、委員長は航研所長の和田小六、委員には田中舘愛橘、寺田寅彦、岩本周平らがいた。木村は師の岩本の
手伝いとして航空評議会嘱託の立場で事故調査にあたった。委員会は機体の残骸をそっくり航研に運び込んで綿密に調査した。当時福岡飛行場長で後に航空大学の初代総長となる武石喜三が広範囲に散乱した機体の破片を丹念に拾い集め、地図の上に詳細に記録していたことが役にたった。その結果、事故原因は極めて科学的な調査によって解明された。寺田寅彦をして「今度の事故調査で結論に達するまでの経過を聞いていると、シャーロック・ホームズの探偵小説を見るよりはるかに興味がある」と言わしめた。
[航研機(1)]
航研機プロジェクトが形を表すようになるのは、昭和8年頃である。航研の各分野の研究を総合して長距離機を試作し、世界記録に挑戦しようという計画である。文部省から50万円をとりつけた。木村は昭和9年10月、航空研究所嘱託の辞令をもらい給料とりになって、このプロジェクトの仲間入りをした。文部省と象牙の塔にこもる教授連を説得して航研機プロジェクトを立ちあげたのは、所長の和田小六とそのプレーン田中敬吉と小川太一郎であった。
木村と当時東大助教授だった小川太一郎との出会いが面白い。木村は大学生の頃、阿佐ヶ谷に住んでいて、そこから中央線でお茶の水まで通学していたが、阿佐ヶ谷始発の電車を選んで座り、ドイツから毎号取り寄せている航空雑誌「フルークシュポルト」を読むことを習慣にしていた。小川太一郎は東中野から通勤しており、座ってドイツ語原書のしかも同じ専門の雑誌を手にする学生に興味を持った。これが縁で大学院卒業後、航研に引っ張る。木村はその後、航研技師、東大助教授・航空研究所員、東大教授・航空研究所員と順調に昇進していく。
航空機の世界記録はFAI(国際航空連盟)が管理している、速度、高度、距離、滞空時間、周回航続距離等いろいろあり、戦前の日本は2つの世界記録を作った。一つは昭和12年4月9日に樹立した『神風』による東京~ロンドン間の速度記録(所要時間/162.85km/h(94時間17分56秒)。そして一つはこの航研機による周回航続距離(無給油無着陸)/11,651kmである。話は逸れるが、航研機だけが世界記録を達成したように解説される場合が往々にあるが、『神風』は航研機とは同次元では比較はできない記録ではあるものの、間違いなくFAI世界記録だったのである。航研機の記録は無給油無着陸による飛行距離に挑戦した「絶対的な世界記録」であったのに対し『神風』は東京~ロンドン間という区間の最短飛行時間に挑戦した承認経路速度記録である。この記録は朝日新聞社機『神風』(陸軍試作機キ-15)を操縦した同社パイロットの飯沼正明と塚越賢爾によって達成された。
航研機に話を戻そう。航研機が挑戦する周回航続距離の当時の世界記録は、7年にフランスのブレリオ・ザパタ110型が作った10,601kmである。これに挑もうという航研の動きに世間から激しい非難の声があがった。「実地の経験のない学者に何ができるか」、「航研の先生たちの作った飛行機が地面から離れたら、銀座通りを逆立ちして歩いて見せるよ」。軍や民間の航空関係者からの非難に反して、ジャーナリストはむしろ好意的であった。
木村は胴体・尾翼・操縦装置・着陸装置などの設計に参画した。長距離飛行を可能にするためには、
①機体をできるだけ軽くすること、
②空気抵抗をできるだけ少なくすること、
③長距離飛行に耐えられるエンジンを作ること、
④確実に作動する自動操縦装置を作ること
の4つがすべて揃う必要がある。機体は東京瓦斯電気工業、エンジンは川崎造船所で製造され、12年3月末に完成すると、夜半、道路交通量の少ない時間帯に荷馬車で羽田飛行場に運ばれ、海防義会の大格納庫に納められた。木村は以後整備の責任者となる。「航研械は近隣住民を巻き込んで大騒ぎをして羽田まで運ばれた」と戦後になって軍・官関係者が『日本民間航空史話』で回想している。世間は航研機に愛憎さまざまだった。当時の航研所長和田小六以下の関係者全員の苦労がしのばれる。
初飛行は5月25日、250mを滑走して無事離陸した。テスト・パイロットは陸軍の藤田雄蔵大尉。後日、木村は航研機の記録は藤田大尉無くしては達成できなかったと言っている程、大胆でかつ沈着冷静な人物であった。初飛行以後、木村は設計上の一番の弱点といわれた引込脚の担当となって藤田パイロットから有益なアドバイスを受けており、励まされることもしばしばだった。こんなエピソードもある。記録飛行5月13目の前日のことである。誰かが木村に「明日は13日の金曙日だぞ」と注意した。縁起が悪いというのである。木村は少佐に進級していた藤田雄蔵におそるおそる言った。「明日は13日の金曜日ですが・・・」「縁起がいい、飛ぼうじゃないか」と藤田はニコリとした。
昭和13年5月13日午前4時55分、記録飛行が開始された。木更津の滑走路を7500リットルの燃料を積んだ過荷重の航研機が1300mを滑走してようやく離陸。木更津・銚子・太田・平塚を結ぶ変形四角コース(三角コースが一般的)周何飛行である。コースは1周402.32km。ほとんど起伏のない関東平野を1周約2時間でひたすら周回する。無線機は重量増加になるうえに故障が多いとして搭載されず、地上との交信は不可能であった。昼も夜も関東平野の上空を飛ぶ航研機に、ラジオや新聞は熱心な報道を続け、日本中の人々の血を沸かせた。さしずめ今日のオリンピック女子マラソンのようなものであった。いよいよ25周、1万kmを翔破して記録樹立が目前に迫った15日の夕刊見出しには「きょうぞ鵬翼の歴史的覇業」、「航空日本きょうぞ制覇の日」の活字が踊った。その論調には軍や民間の航空関係者の冷たい視線を意識したものが多かった。15日の午後、奇跡的に3日間も続いた快晴微風の天候がそろそろ崩れかけてきた。藤田は29周で着陸を決意した。11,651km、世界記録を1,000km突破していることでもあり、天候が下坂になりだし、自動操縦装置にも故障が起こったというのが判断根拠である。5月15日午後7時21分、航研機は木更津飛行場に着陸した。木村はこのとき、やっと30歳過ぎ、リ一ダー格の田中敬吉、小川太一郎もまだ40歳になっていなかった。
世界記録を達成できた理由を木村は、後に次のように述べている。
日本の航空技術全般が上がってきたことが第一。純粋な実験機として作られたことが第二。たとえば軍用機だと、機関銃も取り付けなきゃならん。爆弾も積まねばならん。防弾装置も要る。性能にしても、速度だけでなく、上昇力も操縦性もすべてある程度充たさなければなりません。ところが、航研機の場合は、他の条件は目もくれず、ただ長く飛べばいい、という条件だけを追及した。世界記録を作るまでに育った日本航空技術の実力を航研機が代表して実現した、そういう感じです。
出典:『私の世界 木村秀政』⑫,読売新聞社夕刊,1982・11・4
航研機に乗務したのは藤田を含む3人である。62時間22分49秒の飛行を終えると、胴
体に埋め込まれた操縦室の蓋を開けて藤田少佐は180cmの長身を窮屈そうに折り曲げて翼の上に出、地上に降り立った。後席から高橋福次郎曹長と関根近書機関士が続いた。3人は無精髭を生やし、やつれていたが、ことに関根機関士の憔悴が目立った。無理もない。航研機には正規の機関士席はなく関根機関士は後席の隙間にクッションを敷いて3日間を過ごしていたのである。航研機の座席配置はタンデム(前後式)だったが、前席が左側に寄っており、後席は右側という変則タンデムであった。少しでも重量を軽減するために操縦装置を前席にしか付けなかったからである。中間に翼桁があり、本番のとき、その桁をまたいで操縦を交替した。
藤田は記録達成後、航研機を何度か操縦したらしい。母校の神奈川県立横浜第一中学校(神中)を訪問飛行したとの記録があるからである。その藤田は記録飛行の翌年2月、中支戦線で航研機のコンビ高橋福次郎曹長とともに壮烈な戦死をした。かれらの死は日本陸軍にとっても痛手であったが、木村にとっても大変なショックであった。藤田中佐、高橋准尉(どちらも戦死後、進級)の合同慰霊祭が立川飛行場でしめやかにとり行われた。その死を悼んで航研機が上空を大きく旋回した。航研機を操縦するのは、朝日新聞『神風』の操縦士飯沼正明である。飯沼は航空陸軍依託民間操縦士第十一期生として所沢陸軍飛行学校に学んだが、そこでの教官が藤田であり、同期が高橋という関係であった。航研機は銚子・太田・平塚の思い出での三角コースを飛ぶと立川に深紅の翼をあらわした。これが航研機最後の雄姿となった。
[注] 以上は、「先端研探検団第三回報告書」に同名で発表したものを一部手直ししたものである。ここにお断りをしておく。