|
||||||||
---|---|---|---|---|---|---|---|---|
小説「飛行艇クリッパーの客」をご存知だろうか。第2次大戦直前に大西洋横断の旅客輸送を始めたパン・アメリカン航空の大型飛行艇ボーイング314を舞台に旧き好き時代を再現させた広い意味のミステリーだが、犯人探しの推理小説ではない。著者のケン・フォレットは他にも航空を題材にした、いわゆる“航空小説”を数編著しているが本人は航空事業や従軍した経験は無いようである。 そこで、リサーチが必要なわけだがこの小説の執筆に当っても相当に取材したようで、最後のあとがきでアイルランドの「飛行艇博物館」のスタッフにも謝辞を記していた。この謝辞を目にして以来10数年ずっと、この博物館のことが小説を読んだ後も私の頭から離れなかった。しかし当の博物館は航空専門誌でも紹介されることもないので、もしアイルランドに行くチャンスがあるならばと密かに憧れていた訳である。 アイルランドに「飛行艇博物館」がある理由はアイルランドのフォインズ/Foynesが北米大陸へ向けての最終給油地だったからである。つまり当時の大西洋横断飛行の最長区間はアイルランド~ニューファンドランドで、直接ロンドン~ニューヨークは無理だった。 2007年の春、日本航空協会関係者がアイルランドに出張することとなり、直ぐに出張先と博物館のあるフォインズの位置関係をネットで調べたところ数10kmぐらいでそれほど離れていないことがわかった。それよりも驚いたのは日本語で当の博物館を検索しても殆どヒットしない。つまり日本では依然として殆ど知られていないようなのである。 そこで、出張者に「日本で知られていないフォインズの「飛行艇博物」を訪問してください」と持ちかけたところ、都合の付く限り現地に行ってくれることになった。 幸いにも、出張者が参加した会議では、主催者側が「飛行艇博物館」の見学をプログラムにもりこんでいた。以下、本協会関係者が撮影した「飛行艇博物館」の写真をご紹介する。
その時、日本も大日本航空が南洋航路と称する空路を開設し、横浜の根岸からサイパン、パラオ、チモールなどへ飛行艇が就航していた。面白いのはサイパン周辺で日米の空路は交差するのだが、当時の両国の険悪な関係から乗継ができない。 1941年11月5日、どん底の日米交渉打開のため野村駐米大使の助っ人に、急ぎワシントンへ向かった来栖特命全権大使だが、海軍機で香港に飛び、そこからパンナムで太平洋を横断しなければならなかった。根岸には以下のような標示板が先年設置され、在りし日の水上空港をかろうじて後世に伝えている。
標示板だけでなくフォインズのような博物館の開設が、真の憧れの「飛行艇博物館」である。 上の標示板の解説文
かわはた りょうじ、 (財)日本航空協会 |
||||||||