歴史にみる模型飛行機の顔さまざま
(2) 英国紳士の遊び
歴史
1. はじめに
現在の模型飛行機の用途は、余暇活動、つまりホビー、スポーツ、趣味、遊びと言った類です。そういう模型飛行機は、すぐに子供用と言われることが多いのですが、筆者は甚だ心外です。
代表的な草創期のモデラー(模型飛行機製作者)を拾ってみると、デ・ハヴィランド、ソッピース、フェアリー、ハンドレー・ページ、A.V.ロー(アブロ)、カムなどと言う名前が出てきます。いずれも後世のイギリス航空工業の創業者たちで、コメット、キャメル、ファイアフライ、ハリファックス、ランカスターなど、著名な実機を作っています。カムもホーカー社でハリケーン戦闘機を設計した名デザイナーです。つまり、大人も大人、超エリートのスーパー大人たちです。
イギリスの模型飛行機の全国組織は、後にロイヤル・エアロクラブに所属しましたから、階級社会のイギリスとしてはそれなりの地位の人たちが参画してもいたわけです。前節で触れたように、科学技術が明るい未来を目指して発展していた時代であり、科学技術に関心があることが時代の流行であったわけですから、模型飛行機は時代の先端を行くカッコイイ趣味・娯楽であったわけです。そして模型飛行機が、実機と対等に航空実現を目指した研究手段であったのは、ほんの少しだけ昔のことでした。ヒトが搭乗した飛行が実現した後も、模型飛行機を扱うことは実機の飛行に近い知識や技術を要する活動で、未熟・無学な輩の手に負えるものではなかったわけです。
2.最初の模型飛行機ブーム
最初の模型飛行機ブームは、1908年頃から第一次世界大戦開始(1914)までのイギリスで起こったとされています。その前ぶれとして、1903年にヒトが搭乗した飛行を成功させたライト兄弟がヨーロッパを訪問し(1909)、地元ヨーロッパではファルマンやブレリオの飛行、パリの航空展示会(1908)、さらにドーバー海峡横断飛行の成功(1909)などの出来事があり、全般的な航空熱の興隆がありました。
スーパー大人にしても、個人レベルで扱える動力源はペノー(前節参照)が使ったゴム動力しかありませんでした。内燃エンジンは実用化され、飛行機・自動車・モーターサイクルなどに使われていましたが、模型飛行機に使うとなると大きすぎました。線引きすれば、エンジン付き模型飛行機は、航空の試作研究手段のままでした。
実物飛行機の成功や、次々に進歩・実現する記録的な飛行が背景にあった模型飛行機ブームですから、実機の姿に引っ張られる要素はあって当然です。従って、はじめに実物と同じ形の縮小模型飛行機、後世に「スケール・モデル」と呼ばれたものが試みられました。これは実物の飛行機の存在が先行していますから、前節に記された条件では、厳密な意味での「模型」「飛行機」になります。
しかしながら、お手本となった実機そのものが技術的に未熟な段階で、辛うじて飛行を成功させていた状況でした。それを同じく未熟な技術で外形的にまねをしても、飛ぶことはきわめて困難です。そのため、実機の外形を真似した「模型飛行機」は、すぐに淘汰されて姿を消しました。生き残った模型飛行機の形式は、設計能力を持ったスーパー大人たちが模型機独自の要求や機能に適合するように開発した、独自の形の飛行機でした。
3. A字型ゴム動力模型飛行機
「A字型ゴム動力機」が、最初の模型飛行機ブーム(イギリス、1908~14年)の主要形式です。棒材で組んだ胴体の形状が、上から見たときに{A}の字をしています。英語名では「twin A‐frame pusher」または単に「twin‐pusher」と呼ばれています。これは、当時としては合理的な設計で、良く飛びました。
形は英語名の示す「A字型の胴体の双発推進式」のとおりで、「A」の字の下側に2つの推進式プロペラが付き、機体は「A」の字の上方向に飛行します。「A」の字の両方の斜め線に相当する2本の棒状胴体の下には、夫々1本の動力ゴムが取り付けられ、後端の2つのプロペラを互いに逆方向に回転させます。
双発形式は部品数が多く、構造も複雑で重量も増えます。だから、一般的には単発形式が有利になります。ちなみに、現在の滞空競技機は当時と同じ目的の模型飛行機ですが、全てが単発式です。
しかしながら単発形式では、プロペラの回転トルクのために機体は回転方向の反対方向に傾きます。当時の調整技術では急旋回に入ることが止められず、墜落しました。初期には簡単な単発形式(トラクター:牽引式)が試みられたのですが、飛ばしこなせず、姿を消したのです。
この障害に対処するためにやむなく採用されたのが、互いに逆回転してトルクを相殺する双発プロペラでした。当時は距離競技が多かったので、機体は直進性が重視され、そのためにも双発式は適していたのです。
A字型機の主翼・尾翼の配置には、エンテ型(先尾翼型。「カナード」とも呼ばれ、通常形式の尾翼に相当する安定翼が機首に付き、主翼が後方に付く)と、通常型(主翼が前で、後に尾翼が付く)と両方がありました。
エンテ型の配置は現在では少数派ですが、ライト機は双発(厳密には単発双プロペラ)推進式のエンテ型で、A字型機と同じです。当時は飛行機の定番形式が固まっていなかった状況で、エンテ型はライトが成功させた実績のある配置でした。
最初のA字型ゴム動力機は、1909年にC.フレミング‐ウイリアムスとW.G.アストンが、個別に独立して製作しました。以来、A字型模型飛行機は、以下の変形を派生しながら、1920年代まで模型飛行機の主流形式でした。
主・尾翼とプロペラの配置はA字型と同じですが、胴体の棒材を「T」の字型に組み立てた変種もあり「twin T‐frame pusher」、「T字型」と呼ばれました。文字の向きを基準にすれば、2つの推進式プロペラは、「T」の字の横棒の両端に上向きに付き、機体を「T」の字の下方向に推進します。2本の動力ゴムは、「T」の字の横線の両端と、縦線の下端の間に渡されます。
従って、広義のA字型(双発推進式ゴム動力機)の中には、次の4種の変種が含まれていたことになります。
A字型胴体のエンテ式(先尾翼式)
A字型胴体の普通式(尾翼式)
T字型胴体のエンテ式
T字型胴体の普通式
4. 競技種目と記録
当時の模型飛行技術では旋回飛行は困難であり、直線飛行状態の性能向上がテーマでした。競技形式も、直線飛行の距離・滞空時間・速度などの記録を比較するものす。A字型機は、このような環境に適合し、発達したわけです。
1912年の最初の公式記録会においては、A字型機が手投げ発航(ハンド・ランチ)によって次の記録を樹立しました。
滞空時間 60.4秒(C.R.フェアリー)
飛行距離 320ヤード(約290m:R.F.マン)
機体の設計はそれぞれの種目に特化していました。滞空機は軽く、翼面積が大きく、動力ゴムが細く、低速長時間飛行を指向しているのに対し、距離機は前者より重く、翼面積が小さく、動力ゴムが太く強力で、短時間の高速飛行を指向しています。両機の仕様は以下のとおりです。
*フェアリー機(滞空)
主・尾翼合計翼面積132平方インチ(8.5平方dm)、全重量4オンス(113g)、プロペラ直径9インチ(229mm)、動力ゴムは1/8インチ(3.2mm)幅平ゴム8条
*マン機(距離)
主・尾翼合計面積94平方インチ(6.1平方dm)、全重量5オンス(127g)、プロペラ直径10インチ(254mm)、動力ゴムは1/8インチ(3.2mm)幅平ゴム14条で重量は1.5オンス(43g)
1914年には、記録は距離記録が590ヤード(約540m、R.ルーカス)、滞空時間記録が145秒(T.D.Cクラウン)まで向上しています。また、1923年には、滞空時間247秒が記録されています。
初期の模型飛行機競技では距離種目が多く行なわれました。当時のストップウオッチは高価で、滞空時間の測定のようなスポーツ目的に手軽に利用できなかった為と考えられます。明治40年(1913年)の服部時計店(現・和光)の商品カタログに拠れば、ストップウオッチの価格は100円前後で、高級官僚の月俸に匹敵し、現在の自動車くらいの価格感覚でした。
しかしながら、500mを超える飛行距離記録(1914年)は、公園やゴルフコースでは収まらない長さで、正確な測定も困難です。以降は競技の主流が滞空時間に移りました。1928年に開始されたウエークフィールド級国際競技(後述)は、胴体の中にゴムを搭載した機体による滞空競技であり、A字型機と距離競技は姿を消したのです。
模型飛行機の競技は、飛行記録の比較と言うやり方をとる場合が多いので、「競技飛行」と「記録飛行」、「競技会」と「記録会」の区別が曖昧です。特に草創期では、記録を「競う」水準の参加者がそろわなかったので、厳密な意味で「競技会」であったかどうか議論の余地があります。
ちなみに、1909年の第1回イギリス・エアショ-の模型飛行機競技会では、86機の参加者のうちほんの一握りしか飛行が出来ませんでした。このような状況では、記録の高低(定量的比較)よりは飛行の可否(定性的比較)を比べることが主で、飛行成功者の記録をとることが主旨になってしまいます。
名実ともに模型飛行機の「競技飛行」が行なわれるようになったのは、第2次大戦後のことだと思います。この問題に関しては、その時代の顔を取り上げる節で詳述します。
5. A字型機の構造と飛行法
A字型機の構造は、現在のライトプレーンのように、棒状の胴体の外側に動力ゴムを搭載し、翼は外縁(前縁と後縁)だけによって保持される主桁の無い片面翼です。但し、翼の縁材は竹ヒゴの代わりに重いピアノ線や傘の骨が使われ、絹を張っていました。それに加えて、胴体とプロペラが2つあるので、単発形式のライトプレーンより大幅に重くなり、同じくらいの翼面積の現在のライトプレーン(旧B級)の数倍の重量です。(前項の仕様参照)
A字型は、飛行の安定性を保つために双発・推進式という形式をとりました。プロペラが前に付く普通の双発機、あるいは機首と機尾にプロペラがあるタンデム(串型)双発機の場合、出発のときに2本の手でプロペラと機体姿勢を同時に固定することは困難です。両手でプロペラを掴んだ場合は、体が邪魔になって、発航動作が極めてやりにくいことになります。離陸発航の場合は、機体が地面に支えられるので多少は楽になりますが、上記の問題は解消されません。
A字型(広義)双発機であれば、飛行者は機体の後端にある2つのプロペラを後ろから両手で持ち、前に押し出すことによって、一人で発航させることが可能です。A字型機は飛ばすときの取り扱い性が良い、合理的な双発形式でした。
双発機の飛行準備を楽にするために、当時は互いに逆転する2つのゴム巻きフックを持つ専用ワインダーが市販されていました。これを使うと、2本のゴム束を同時に、互いに逆の方向に同じ回数だけ巻くことが出来ます。
第1回ウエークフィールド杯競技優勝機
(注) 現在FAIで授与しているウエークフィールド杯は1928年に寄贈された2代目。初代のものは1911年に寄贈され、第1次大戦の混乱で行方不明になった。従って、この機体は1911年に優勝したことになる
6. その後の「大人の模型飛行機」
今までに無かった新種の模型飛行機に初めて取り組んだ者は、先例の無いゼロ・ベースのスタートですから、あらゆる事態にも対応しなければならず、広範な知識や技術が必要でした。そのため、イギリスの草創期のモデラーたちは、後年に実機の生産者になるような「スーパー大人」でした。
パイオニアたちが道を切り開いてくれれば、方針が決まり、ノーハウが蓄積され、徐々に容易になってきます。時代が進むと普通の大人でも参入できるようになり、さらには子供でもやれるようになります。この流れは、どこの分野でも同様で、始まってから一定の期間をおけば、誰でも出来るようになって普及・拡散するわけです。
模型業界も、市場の拡大のために、「誰にでも簡単に出来る」模型飛行機を開発して提供し、この流れに拍車をかけます。模型飛行機の世界では、これに加えて人為的に大規模な児童教育活動(次回掲載)が行なわれた時期がありました。そのため、一時は異常に子供の参加が増えて模型飛行機人口の平均年齢が下がりました。
しかしながら、模型飛行機で一番面白い部分は「パイオニアごっこ」です。他人が知らなかった知識を応用し、他人がやらなかったことを最初に行い、できればそれを利用して創業者利益、つまり他人を出し抜いて競技会で荒稼ぎを実現することです。このレベルになると、子供では無理で、大人あるいはスーパー大人の世界になります。
模型飛行機の統括団体やクラブが、新機種・新競技を発表し、あるいは機体制限の仕様数値を変更することは、「パイオニアごっこ」が出来る余地を増やすのが目的と言えます。要するに、時を追って増える「誰にも簡単に出来る」こと以上の新しい問題点を作り出すことが、興味を繋ぐ上で必要なのです。
FAIの定めた世界選手権種目とそれに使用する機体の規格は、1928年にはウエークフィールド級ゴム動力機(後述)一つだけでした。それが、第2次大戦後に模型飛行機の国際競技が再開されたときは3種目になり、現在では数十種目に増加しています。各クラブでも面白そうな競技を考案して育て上げ、あるものは出世して国際競技に採用されます。
それだけたくさんの新しい研究テーマの難題を与えられ、あるいは自ら見つけ出してきたから、模型飛行機は今まで元気に生き残ってきたのです。模型飛行機活動の中核は、絶えず新しい難題を解決していくことであり、それには不断の開発余地の維持拡大が必要で、ともに大人の世界です。
時代を経過させて現状を見ると、模型飛行機の世界は少子高齢化が極端に進み、スーパー大人の割合も高い構成です。一時は、この状態がジュニア・プロブレム(年少者欠乏問題)として問題視されましたが、草創期の状況を振り返ると不自然ではありません。
出典
1. Aeromodeller Annual 1975-76
2. The world of model aircraft by Guy R. Williams, 1973
編集人より
大村和敏氏は元模型航空競技・ウェークフィールド級日本選手権者であり、模型航空専門誌にも寄稿されています。