逓信省航空局 航空機乗員養成所物語(11)
– 中央航空機乗員養成所の設立 –

松戸中央航空機乗員養成所設立の経緯

 昭和14年6月に改正された航空機操縦士養成規則によって、養成の人員、期間、場所、1等と2等操縦士の養成区分等の詳細が規定された。これにより地方航養所で2等操縦士資格を取得した者が、1等操縦士資格をとる場合は、新たに設置された中央航空機乗員養成所(18年4月以降、「中央」を「高等」と改称)に入所することが義務付けられた。

 中央航空機乗員養成所設立の主旨は、「民間の定期航空又は航空機製作所等で従事する職業航空機乗員と地方航空機乗員養成所の教官要員を育成」することにあったが、時局柄、有事に備えての陸海軍予備役将校の大量確保にあった。

 昭和15年4月に松戸中央航養所(俗称「鳳原」)が開所したが、「支那事変勃発以来、航空士ノ養成益々急務ナルニ鑑ミ・・・・、一朝有事ノ際ハ防空用トシテ、他面、帝都ニ於イテ大編隊ヲ必要トスル如キ場合、市内空港ト併用セバ、特ニ利用価値絶大ナルモノナリ」と、松戸飛行場工事記念帖に明記されている。

 入所資格は地方航養所卒業生、且つ、軍事訓練修了者とし、全寮制で普通科と高等科があった。前者は1年の課程であり陸軍予備士官学校と相当し、後者は2年の課程であり、陸軍士官学校に相当するととらえられていた。操縦科と整備科(2年間)があり、さらに操縦科は教官班と輸送班に分かれていた。

 第1期生は操縦科50名と、同時に機関科1期生30名として、甲種工業学校卒業生が試験により選抜されて入所した。教官のほとんどは養成所出身者で占められ、生徒は一人前のパイロットとして、すでに軍属、大日本航空、満州航空、中華航空で活躍している顔ぶれだった。ここでは地方と違って、一人前の操縦士としての人格が認められていたから、体罰もなく、病気にでも罹らないかぎり、不合格になることはなかった。

 ここの主任教官になった川田幸秋は、名古屋飛行学校出身(長期1期)で、米子、予備下士、中央と常にトップを歩んだ逸材だった。戦後の昭和26年5月、養成所出身者の同窓会「おおとり会」の設立に携わり、民間航空が再開されると航空局乗員課に所属、いち早く渡米して民間操縦士の資格試験にいどみ、試験官として力量を発揮した。しかし、昭和41年8月、日本航空のCV880型機の技能審査飛行に同乗、受験者の離陸失敗によって墜死した。享年46歳だった。

 昭和19年10月、古河地方航養所に松戸高等航養所支所が併設され、戦局がいよいよ激しくなると共に、暫時、操縦生の高等教育は古河へ移っていった。同時に松戸は、当初の陸軍省の意図に従って、帝都防衛の最前線陸軍飛行場として、東京上空に飛来するB29爆撃機などを相手に、果敢な防空戦を展開したのである。

 なお、海軍系高等航養所は18年4月に広島県深安郡に福山高等航養所として設立された。水上機の1等操縦士要員養成が目的であったが、時局柄、充分に機能することなく終戦を迎えている。

教育内容

 教育訓練内容は、操縦科、機関科ともに水準が高く、陸軍航空士官学校とほぼ同様の教材が使用された。学科は数学、微分積分、三角法、球面三角法、応用力学、原動機、材料学、燃料等々、術科では整備、通信、空中航法等が実施されている。

 飛行機は95式三型および一型による高等飛行、90式地上作業練習機、97式戦闘機、中島AT2型双発輸送機、それにソアラー(高級滑空機)が使用された。後に低翼単葉99式高等練習機も導入された。

 教官班は卒業後、養成所教官、新聞社、航空機メーカーのテスト・パイロットへの道があり、輸送班は航空会社パイロットの道が保証されていた。しかし、19年3月の規則改定による陸軍補充令または海軍予備員令によって、全員、陸軍予備生徒ないし海軍予備練習生として訓練を受け、修了後は士官(軍曹または少尉、飛行兵曹長)として、航空輸送部に配属された。

 海軍予備員令改定による海軍予備練習生規則第3条には、次のように規定された。
「飛行機操縦術甲種及整備術甲種特修ノ予備練習生ハ高等航空機乗員養成所又ハ地方航空機乗員養成所生徒ニシテ志願スルモノニ就キ之ヲ採用ス 前項ノ規定ニ依リ採用サレタル飛行機操縦術甲種予備学生ハ教育上必要アルトキハ之ヲ整備術甲種予備学生ニ転ゼシムルコトアルベシ」

 水間博志氏(印旛10期)は、熊本航養所での教官勤務から、18年9月に松戸高等航養所操縦科へ入所、教官班要員として訓練を受けた。高等訓練だけあって、特殊飛行や横転、宙返りなどの技術を会得したときの喜びは大きかった。さらにこの時、はじめてソアラーに乗ったが、目的は機体の慣熟と同時に、集団による強調精神の涵養にあった。滑空機の飛行は、動力付飛行機のような空中での騒音もなく、まるで大鳳が大空に舞っているようで、素晴らしい感触だったという。

機関科生徒の教程

 前掲のように機関科の1期生は甲種工業学校卒業予定者から採用されたが、2期生以降からは、中学校および工業学校卒業、もしくはこれと同等以上の者と幅をひろげた。期間は2年間で、高等工業学校機械科卒業程度の学力を目標とした。従って、陸軍航空士官学校や陸軍航空専門学校幹部候補生用の教材が使用された。

 卒業時は、1等航空機整備士技倆証明書、航空機機関士技倆証明書、および航空機機関士免状が交付された。

 日課は一般に午前中が学科、午後が術科になっていた。術科では、ハンマーやベンチの使用に慣れるために、基本的な工作から入っていった。次に飛行機工場や発動機工場での実用機の分解組立、発動機部品の洗浄などで腕を磨いた。

 杉山均氏(3期)によると、2年生になっての最大の楽しみは、1週間の関西旅行だったという。それは、今までに鍛えた実力発揮の場であった。まず浜松の日本楽器で落下タンクの製作、2日目は名古屋の三菱航空機製作所で97重爆の組立、3日目が三菱発動機製作所で金星発動機の製作、4日目が大阪の住友金属、5日目は岐阜の川崎航空機と、この時代をリードしていた航空機関連企業での実習をおこなった。

 卒業前の最後の総仕上げは機上実習で、この時初めて機関科生徒へ航空被服が支給された。実際に99高等練習機に乗り込んで飛び上がり、計器の作動状況の監視、脚、フラップ操作などをおこなった。

 卒業後の行き先は、全員、大日本航空希望であったが、養成所の指名を待つしかなかったという。1期生は大日本航空、中華航空、養成所教官に就き、2期生と3期生の大半は、昭和17年12月にシンガポールに設立された、事実上の陸軍隷下である南方航空輸送部と、養成所教官職に就いている。

 毎年、25~30名が採用されたが、昭和19年4月採用の5期生は169名であり、整備専修生と呼ばれた。彼らを入れて計284名が卒業した。わずかながらも民間の実務に就いたのは3期生までで、4期生は繰上げ卒業後、ただちに予備候補生となった。5期生は1年4ヶ月で終戦により卒業、まがりなりにも正規の資格が付与されている。

 ここで息抜きに、あまり知られていない機関科3期生のストもどきの反乱をご紹介する。
知る人ぞ知る「古河の二・二六事件」(後述)は有名だが、この事件も、時代を反映して興味深い。

 2年目の夏休みも終わった頃、定期的な内務検査のとき、寝室天井隅にある換気孔の蓋がずれていることを発見した教官は、不審に思い、中を覗いて驚いた。タバコの吸殻が散乱していたのである。さあ大変、早速、犯人探しが始まり、証拠がないまま、5名が生徒監室へ連れていかれた。

 一方、残った3期生は鶴首をつらねて対策を講じた。そして連帯責任だからと全員処罰を申し出たが、聞き入れられないまま、ついに2名が退所処分になった。同期生たちは腹の虫が治まらない。建白書を書き上げ、職員が近くの農家で食料の買出しをしていることを書きたて、闇取引と非難したのである。

 それでも事の成り行きは好転しない。挙句は全員が退所届けを壁に張りつけて、真夜中に脱柵、次の日に各自は貯金を引き出し、旅費として上京、宮城前で解散、無断で帰郷してしまった。

 所内は騒然、結局、首謀者を出さないとの通知によって、6日後に帰所した。とたんに重謹慎30日を申渡され、毎日、自習室で軍人勅諭の清書をするハメになったが、2週間ほどで教育が再開された。戦時のことでもあり、この事件が表沙汰になることはなかった。

逓信省航空局 航空機乗員養成所物語リンク

執筆

徳田 忠成

航空ジャーナリスト

参照 「航空機乗員養成所年表

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